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8月15日は73回目の終戦記念日だ。終戦1年前に大宮に生まれ、すぐ南埼玉郡の農村に疎開した私には戦争そのものの記憶はないが、母が戦後何年たっても飛行機音を「B29を思い出す」と言って嫌っていたことから、大宮にも空襲があったのを知った。
米軍機が初めて日本本土を爆撃したのは1942年4月18日で、航空母艦から発進したB25爆撃機10余機は、攻撃後に中国に着陸という片道飛行だった。この空襲で東京区部や埼玉県川口、川崎、名古屋、神戸が被害にあい、死者が45人、重傷者153人だった。川口では日本ディーゼル工業の工場が襲われ、死者12人、負傷者88人。1944年以降のB29爆撃機による被害に比べれば軽微だったが、開戦後4か月にしての首都攻撃は軍部に衝撃を与えた。
ボーイングB29スーパーフォートレスは1万メートルの上空を高速で飛行でき、9トンの爆弾を積載し、9380キロに及ぶ航続距離を持つモンスター機だった。高々度でも地上と同じ気圧が保たれる機密室、リモコンによる機銃操作、高性能エンジンなどの新技術を備え、1943年6月に米国陸軍に引き渡された。
B29の開発については日本の軍部も察知していたが、本格的な対策が講じられないまま開戦となった。緒戦は優位に進めていたが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北を境に守勢に転じた。防空の必要性は認識されていたが、飛行機は南方の激戦地につぎ込まれ、本土の守りは手薄になっていた。
1944年に米軍がマリアナ諸島に迫り、首都圏への空襲が現実のものと認識されると、陸軍は関東地方の防空のため、第10飛行師団を編成し、関東各地に戦隊を置いた。これらの基地には「隼(はやぶさ)」などの戦闘機が配備されたが、B29を迎撃するには力不足だった。
米軍はマリアナ諸島で日本を撃破すると、そこに航空基地を作り、B29を日本に向けて発進させた。B29が東京を初めて空襲した1944年11月24日から翌年3月初旬までは、主として航空機工場などの軍需工場や軍事施設に向けて高度1万メートルから精密爆撃を仕掛けていた。東京初空襲の際には、編隊の一部が南埼玉郡八幡村と潮止村に焼夷弾を投下したが、被害はわずかだった。
1945年3月10日の東京大空襲から6月半ばまでは、大都市の工業地帯と住宅密集地に、焼夷弾を用いた低空爆撃による大規模無差別攻撃が行われた。狙われたのは東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、尼崎、神戸の7大都市が中心だった。この時期も埼玉県への空襲は続けられた。首都に隣接し、軍需工場などが多かったからだが、大規模なものは少なかった。主なところでは川口、蕨、浦和、大宮が複数回と、県南部の被害が目立つ。
それ以降、8月の敗戦までは中小都市への夜間低空爆撃が多くなった。8月には広島と長崎に原子爆弾が投下された。この時期、県内では所沢や川口に複数回、さらに大里・入間・北葛飾・北埼玉・南埼玉の各郡にも攻撃は広がった。米軍は内陸の要地、熊谷を埼玉県唯一の第1攻撃目標にしていた。8月15日の午前0時23分から76分間で、大型爆弾6発と8049発の焼夷弾が投下された。市街地のほとんどが罹災し、死者234人、負傷者3000人にもなり、県下最大の被害だった。同じ日の正午には天皇の「終戦」放送が行われたから、この時点で終戦はわかっていたはずだ。日本戦用に開発された焼夷弾の在庫整理のような攻撃には熊谷市民ならずとも怒りがおさまらない。
山田洋
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