トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 性悪説のキリスト教、性善説の神道 その1
外交評論家 加瀬英明 論集
世界の文化のなかには、優しい文化と、そうでない文化がある。
私はアフリカ南部のナミビアを、訪れたことがあった。
私はこのような話を聞いた。
ナミビアの東に、広大なカラハリ砂漠が広がっている。日本の面積の2倍以上もある砂漠だ。
降雨量が少なく、乾ききった背の低い灌木しか育たない。
そのために、短い投げ槍しかつくることができない。
原住民のブッシュマンは、槍で動物を狩っても、槍が短いために致命傷を与えることができない。そのため、獲物は生命を絶たれるまで、苦しむことになる。
ブッユマンは動物が死ぬまで、そのわきで、苦悶を分かち合って身を捩らせて、その苦しみをともにする。優しい人々だ。
聖書は「森の生き物は、すべてわたしのもの。山々に群がる獣も、わたしのもの」(「詩編」50-10)と、述べている。森や、山の生き物や、家畜を殺しても、痛痒を感じない。
西洋人はブッシュマンが未開人だから、獣の苦痛を分かち合おうとするのだと、考える。そして、自分たちが文明人だと思う。だが、どちらのほうが、蒙昧なのだろうか。
私たち日本人にとっては、自然界のありとあらゆるものに霊が、宿っていた。森や、山や、海に生きるあらゆる生き物が、人と同じ共同体に属している。
一休に「直なるもゆがめる川も川は川 仏もげたも同じ木のきれ」という歌がある。
江戸中期の俳人である上島鬼貫(1661年~1738年)が、「行水の捨てどころなし虫の声」と、詠んでいる。やはり、中期の女流は俳人だった千代女(1703~75年)の「朝顔につるべ取られてもらい水」という句にも、同じ感性がこもっている。
日本人は、虫や、草にまで、心を通わせて、自然と和した。
だから、動物や、魚の供養をする。虫供養もある。針供養すらあるのだ。
針供養は、昔から全国で行われてきた。針の使用を忌んで、針仕事を休み、古針を豆腐や、コンニャク、餅に刺して、神社で供養した。地方によっては、川に流した。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 8章 神道の宇宙観、キリスト教の宇宙観
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