トップページ ≫ 社会 ≫ 日本一の桜並木を失ってー与野は桜のまちとして全国的に有名だった
社会
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家から近いさいたま市立与野図書館には時々行き、先日は郷土関連図書コーナーで分厚い『与野市史 通史編下巻』を手に取った。明治以降の与野(現・中央区)の歴史が記録されていて、巻頭口絵では、かつて桜の名所だった与野が紹介されている。
見開きの右ページは昭和63年撮影の与野公園の桜と弁天池のカラー写真。左ページは昭和初期とおぼしき与野本町通りの桜並木。桜と蔵造りの建物が並んだモノクロ写真は、溝口健二監督の名作『雨月物語』の一シーンを思わせる。この写真の下には明治末にこの地を訪れた日本民俗学の祖、柳田國男の文章が添えられている。――桜並木の最も美しきは埼玉県与野町なり、浦和及び大宮より各一里あり、春の末にこの町へ遊びに行きしに町には市立ち、落花街に満ちて夢の国を行くがごとくなりき。
旅を愛し、全国各地を巡った柳田の独自の視点による紀行文を集めた『豆の葉と太陽』に収録された『並木の話』の中の一文だ。このような旅が柳田民俗学の原点になった。
しかし今、本町通りには桜の木は皆無だ。空襲により焼失したわけではない。『与野市史』によれば、電柱や下水溝の工事がもとで木が枯れ始め、戦争中には燃料として伐採されてしまったのだ。本町通りの西側にある与野公園も桜の名所として広く知られ、大正2年の新聞に「古木多ければ雅趣多し」と記述されている。しかし、大正から昭和にかけて老桜が次第に枯れ始め、観桜客も減っていったという。だから市史の口絵写真は最盛時のものではない。
与野公園は桜に代わって今はバラの名所になっているが、救いがないのは本町通りだ。桜がなくなり、かつては川越と比肩したほどの蔵造りの家々もほとんど消滅している。もし、桜並木と蔵の街が残っていれば、かなりの観光名所となっていたのではないか。しかし、それは柳田國男の『遠野物語』ならぬ『与野物語』に思いを馳せる春の夜の夢でしかないのだろう。
写真2点とも『与野市史』より
山田 洋
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