トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 樋口一葉が描いた明治の日本人 その1
外交評論家 加瀬英明 論集
五千円札に樋口一葉(ひぐちいちょう)の肖像が、あしらわれている。
樋口一葉は、日本が日清戦争に勝った翌年に、二十五歳の若さで病死したが、一度も、洋装をしたことがなかった。
一葉は、本名をなつといったが、奈津とも、夏子とも書いた。
なつは、明治五(1872)年に、東京府の下級官吏を父として、府庁舎の長屋で生まれた。
この年に、日本では西洋を模して、旧暦に代わって太陽暦が採用され、政府が学制を施行し、銀行が設立された。日本最初の瓦斯灯が、横浜の本町通りにともった。福沢諭吉の『学問のすゝめ』が、刊行された。
父は甲斐国(かいのくに)(現在の山梨県) の農家の子だった。長男しか田畑を相続できなかったので、明治元年の11年前になる安政四(1857)年に、江戸に出た。
なつが十七歳になった時に、父が事業に失敗し、多額の借金を残して病死した。
そのために、なつは母と妹をかかえて、針仕事や洗い張りなどの内職によって、生活を支えるという不遇な生涯を送った。
明治二十九(1896)年に、肺結核で亡くなったが、明治女流文学の第一人者となった。
五千円札の肖像は、なつがたった一回だけ、写真館で撮った写真が もとになっている。しかし、顔から陰翳(いんえい)を取り除いてしまって、平面的にしてしまったために、もとの写真の理知的で、蠱惑(こわく)的ですらある美貌が伝わらない。
なつは、十一歳で、小学高等科を首席で卒業した。当時の小学校は、四年制だった。
幼時から、父によって古典を教えられて、古典に親しんでいた。
父は娘の天分に気づいて、なつが十四歳の時に、歌人が経営する塾に預けた。
あの時代の女性だったので、意志が強固だった。忍耐強く、向上心に駆られていた。
21歳で小説『闇桜』が、はじめて文芸誌に載った。多作だったが、当時の原稿料は安かった。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 9章 失われた日本人の面影
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