社会
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普段はあまり関心を寄せないが、年6回の大相撲の場所中は話題にのぼるのがモンゴルという国だ。人口300万余で人口密度は世界最少の2人弱の国の出身力士たちが相撲界を席巻しているのは驚異でさえある。しかし、この国の歴史、草原の遊牧民が13~14世紀にユーラシアを統合したという壮挙を知ると、なるほどという気がする。
東は朝鮮半島から西はロシアまで、北はシベリアから南は中国、イランまでをモンゴル帝国の領土とし、史上最大の帝国を築いた。日本には1274年と1281年に襲来した。2度目の時は14万人の兵士と4000艘の兵船という大軍だったが、暴風雨によって多くの船が沈んだり破損し、日本側は辛うじて難をのがれた。
鎌倉幕府や朝廷を震撼させたこの戦いで、モンゴルは強大で野蛮というイメージが造成された。もっとも、このモンゴル観は明治以降、それも昭和になってからのものだという。モンゴル襲来は国難とされ、その時の幕府の執権、北条時宗は救国の英雄視され、日本を守った「神風」が囃されるようになった。
東洋史の研究者たちによれば、領土拡大の過程でもモンゴルが一方的に攻め入り殺戮や略奪を繰り返したというのは事実とは違うそうだ。どの地域でも戦う前に敵方が自壊するか投降するように誘導したという。日本に対しても使者を送り、第5代皇帝クビライの国書を渡している。交流を求めるこの書には脅しのような個所があるとの見方もあるが、モンゴル史研究の第一人者、京都大学名誉教授の杉山正明氏は、漢文にはよくある表現で、後世の歴史家たちの過剰反応だとする。
日本側は返書を出さず、その後も使者と文書が何度か来ても、返書は一度もなかった。使者を殺害したこともある。このような経緯があって、クビライの対日姿勢が硬化していった。当時の幕府はモンゴルに関する情報が乏しく、その対応は外交とか国益を考えるレベルではなかったようだ。
2度目の襲来では、2年前に帝国に滅ぼされた南宋の失業兵が多く、武器の代わりに農具を持参し、移住を希望していたと見られる。暴風雨がなかったら、その後の日本の様相も変わっていただろう。
ともあれ、最強の敵を相手に国土防衛を果たした史実は、後に「神風」、「神国日本」という意識へと誘導された。それが無謀な太平洋戦争につながったとしたら、歴史の皮肉でしかない。
山田 洋
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