トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 博物館のガラスケースに押しこめられた仏像 その1
外交評論家 加瀬英明 論集
博物館で仏像がガラスケースのなかに、展示されている。 歴史を通じて、仏像は拝むものだった。何時から美術品にして、展示されるようになったのだろうか。
仏像を仏像をこのように扱ってよういものなのだろうかと思う。
仏像を仏像を安置するのなら、せめて線香を焚いてほしいと思う。もっとも、そんなことをいったら、「消防法によって禁じられています」といって、突き放されよう。
賽銭箱(さいせんばこ)を置いてほしい。だが、博物館の館員が出てきて、「法律によって、特定の宗教を支援することは許されません」と、説明することだろう。
仏像を人々の好奇の目に曝(さら)して、見世物にしている。
ほとんどの人がケースに押し込められた仏像の前に立っても、線香も、灯明(とうみよう)もあげないことに、違和感を覚えない。 刹(せつ)那(な)にしか、関心がないのだ。
仏像には先人の祈りが、宿っている。私は宗教心がけっして篤(あっ)いほうではないが、 仏像に向かうことがあれば、先人の心を思って、軽く合掌することなるとにしている。
12月になると、私の事務所があるビルのロビーに大きなクリスマス・ツリーが飾られる。日本ではキリスト教徒が少ないから、人々に散財を促す商業的なものだ。
だが、今日の日本人に4月8日と言っても、釈迦 が主まれた花祭と結びつける者は、わずかである。5,60年前だったら、子どもでも知っていた。花祭が忘れられたのは、仏教が散在に結び付かないからだ。
全国民が金という邪神を崇(あが)めるようになって、日本人から神性が、急速に失われている。
かつて、私たちは聖なるものに囲まれて生きていた。
私が高校生だったころまでは、路地の壁に、鳥居の絵と組み合わされて、「小便無用」と書かれていた。日本のなつかしい原風景だった。
都会の家でも、竈(かまど)の上に、小さな神棚や、神社のお札があったものだった。竈が炊飯器や、電子レンジになった。そのかたわらで、神棚も、お札も、忘れられるようになった。
いまでは、何もかにも、電気洗濯機に一緒にほうり込む。私の母の時代までは、上半身 と下半身の着衣を、 たらいを上バケッと下バケッとに分けて洗ったものだった。
合理的でない、といってはならない。長い時間をかけてつくられた、細々とした慣わしを守ることによって、人と人が結ばれていた。
自分よりも上にあるものを感じて、おそれることが、人々を謙虚にした。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 9章 失われた日本人の面影
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