トップページ ≫ 社会 ≫ 張本勲さんに落涙した2人の川上さん
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日曜朝のTBSテレビ『サンデーモーニング』のスポーツコーナーで、選手たちを「あっぱれ!」、「喝ッ!」と強引ながらも分かりやすい評価をくだす張本勲さん。この人も8月には特別な思いにとらわれるという。
1939年に両親が1男2女を連れて朝鮮半島から広島に移住し、翌年に勲さんが誕生した。5歳だった1945年8月6日に米軍が投下した原子爆弾が家族を襲った。家は爆心地から2.5キロ、海抜70メートルほどの裏山のお陰で熱線を直接浴びなかったが、家はペシャンコ、子供たちに覆いかぶさって守ってくれた母は大怪我をした。勤労奉仕に出ていた長姉は変わり果てた姿で発見され、間もなく亡くなった。
張本さんはその前年にも大きな事故に遭っていた。焼きいものために仲間と焚き火をしているところに軽トラックが突っ込み、はねられた勲少年は焚き火に右手をついて大やけどを負った。右手の小指と薬指が3分の1の長さになり、2本がくっついてしまい、親指と人差し指は内側に曲がったままになった。数年後に手術を受けたが、もとに戻ることはなかった。
小学5年で初めて野球をやった。右手が不自由なので左手で投げる練習をしたら、左投げに抵抗なく転向できたものの、右手でのグラブ扱いには大変な苦労をした。努力を重ねた結果、高校時代から注目されて多数の球団から誘われ、東映(現・日本ハム)に入団した。1年目からレギュラー入りし、新人王を獲得、2年目には打率3割に到達した。1981年に引退するまでの23年間で首位打者に7回、通算で日本記録の3085安打を叩き出した。
右手の怪我は誰にも見せなかったが、現役引退後、元・巨人軍監督の川上哲治さんにだけは見せた。川上さんは「よくもまぁ、この手で……」と涙ぐんだという。監督時代に勝負に徹した指揮で冷徹な印象があったこの人の意外なエピソードだ。張本さんは「ご自身も熊本から上京して、家族を背負って野球をしていましたから分かるのです、気持ちが」と大先輩の心を察していた。
張本さんに強く心打たれた人はまだいる。何回も芥川賞候補になりながら官能小説に転向して人気作家になった川上宗薫さんもその1人。卓球の硬球をプラスチック製のバットで打つ「ピンポン野球」の創始者でもあり、自宅に編集者や愛好者を集めて定期戦をしていた。私もその一員だった。そこに張本さんが来てくれたのだ。
その時は最強メンバーだけが召集されたので、下位に低迷していた私にはお呼びがかからなかった。後日、張本さんにピンポン野球を披露できたことを宗薫さんは嬉しそうに話していた。
その頃、張本さんは東映から巨人に移籍していたが、故郷の広島での第1戦でカープファンから国籍も絡めた激しい野次を浴び、球場に招いていた母は強いショックを受けた。このことを宗薫さんは雑誌に書いた。張本さんに電話をかけ、話しているうちに涙が止まらなかったという。このような素朴な感情描写は珍しかったので、読んでいて「えっ」と思った記憶がある。
かなり後になって、その理由に思い当たった。宗薫さんの実家は長崎の原爆被災地の中心にあり、母と妹2人が即死したのだ。学徒動員で長崎にいなくて難を免れたご本人は、原爆についてもほとんど書いていなかったが、張本さんに対する思いの中に原爆で家族を失ったという共通体験があったはずだ。
2人の川上さんの張本さんとの接点を知ったら、こちらの胸も熱くなってきた。
山田洋
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