トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ ほうきと電気掃除機の違いは
外交評論家 加瀬英明 論集
昨年の夏に、日頃、敬愛するS先生が、暑中見舞に見事な箒を贈ってくださった。部屋掃きの箒である。
先生は「老女ですよ」といって謙遜(けんそん)されるが、高齢にもかかわらす、教育者として活躍されている。このような箒を 手に持ったのは、25年、30年振りのことだろうかと、思った。
電気掃除機で掃除したのでは、心が籠(こも)らない。箒は心の延長だった。箒は心の塵(ちり)も、掃いたものだった。婦という字は、女性と箒が組み合わされている。いつのまにか、婦功とか、婦徳といった言葉が失われた。
私は子供心に、母が箒で夏座敷を掃いているところを思い出した。冷房とコンクリートのおかげで、夏(なっ)木(こ)立(だち)、夏陰(なっかげ)、夏扇、(なつおうぎ)夏(なつ)掛(が)け、夏座敷をはじめとする、涼しげな言葉も、忘れられてしまった。
家の縁側に人が集まった。小さな庭には打ち水がされた。
家の前の路地には、縁台(えんだい)が置かれて、近所衆が涼しげなステテコを いて、会話や将棋に興じて、縁を深めたものだった。
いまは、夏服といって、夏衣(なつごろも)といわない。私たちの身近にあったあの夏は、いったい、どこへ行ってしまったのだろうか。日本人が繊細さを、失ったのだ。
主婦が家の前の路地を早朝に掃いて、清々(すがすが)しい箒(ほうき)目(め)をつけたものだったが、醜いアスファルトによって覆われてからは、朝の詩がなくなった。
詩は、心の囁(ささや)きである。目で読むものではなく、目で見て、心で聞くものだ。
あのころは、家の前に出て、朝陽を拝む人々が珍しくなかった。昇ったばかりの太陽の神秘的な光が、全身にみちてゆくよろこびが、伝わってきた。
あのころの日本人は、真面目で、補いあい、援けあった。希望と夢を分ちあった。報恩と感謝の気持ちを、かたときも忘れることがなかった。
日本人の徳は、和を求めるとともに、自らを厳しく律することから、発してきた。
日本の礼儀作法は、和装をとっても、立ち居振る舞い、武道をとっても、自制することにある。
今日の多くの大人や子どもたちが、マナーをわ弁きまえていないが、和を重んじようとすることがなく、自制することがないからである。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 9章 失われた日本人の面影
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