トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 『桃太郎』 の咄(はなし)が教えてくれること
外交評論家 加瀬英明 論集
かつて、日本語は世界諸語のなかで、心のついた言葉が、もっとも多かった。私たちは、心の民だった。
国語を「話す、書く、読む」ことによって、学ぶという。しかし、それでは国語を学ぶことにはならない。
かつて、この国では、言葉は人から人へ意思を伝えるためだけではなく、心を分かちあうために用いられた。
言葉の奥にあるものを、忘れてはなるまい。言葉には、先祖の贈り物である、高い価首がこめられている。言葉には先祖の願いと、知恵が宿っている。言葉を乱したら、社会を支えてきた精神を、壊すことになってしまう。
先人たちが長い歳月にわたって、 一つ一つの言葉に、喜びや、涙とともにこめてきた意味や、情感を捨ててしまったら、中身のない空疎な記号を教えるだけのことになってしまう。
ついこのあいだまでは、言葉のなかに、 躾が宿っていた。
言葉は人の思考の拠りどころであり、人をつくっている鋳型である。 テレビや、新聞、雑誌だけではなく、人々が日常会話のなかで、根がない外来のカタカナ語を振りまわしているが、 こうした行為は、心を損ねる。
私たちは、伝統と現代が交わる点に、生きなければならない
今日という日は、縦糸である伝統と、横糸である現代によって、紡がれている。 伝統を捨てて、現代だけに生きると、人は大切な根を失って、漂流することになる。
現代はめまぐるしく、変わってゆく。伝統精神を尊ばなければ、まるで強風の日の糸が切れた凧のようになってしまう。人も、社会も、国も、漂泊することになる
日本人だったら、「昔、そのむかし、お爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは山にしば刈りに、お婆さんは川に洗濯に・・・・・」という『桃太郎』の咄(はなし)を知っていよう。
しばは、ゴルフコースの芝ではない。柴は山野に群生する雑木で、ついこのあいだまで日本は貧しかったから、炊事や、暖をとるために薪(たきぎ)とした
私たちは、新聞や、テレビで、GDP(国内総生産)が何パーセント上がったとか、下がったという報道が行なわれるたびに、一 喜一 憂している。
この「桃太郎」の咄は、今日の大人たちに、多くを教えてくれると思う。柴刈りに精を出すお爺さんと、川で洗濯するお婆さんは、 GDPに貢献することが、まったくなかった。
もし、住居に電子レンジや、パン焼き器や炊飯器などの電化製品があったなら、そのような製品をつぎつぎに買い込んで、電機、ガス、水道を消費することによって、GDPを押し上げたはずだ。だが、二人が電気器具をもっているはずがなかった。
お婆さんは、洗剤を買わなかった。洗剤や、乾燥機や、ヘア・カーラーを使って水道や電力を消費することもなかった。 洗濯物を竹竿にかけて、自然の陽光や風に晒した。二人は、澄んだ空気を汚すことも、環境を破壊することもなかった。
お爺さんとお婆さんは、見えるものよりも、見えないものを大切にしたにちがいない
お爺さんはしばを刈りながら、心の雑草も、引き抜いたにちがいない。お婆さんは、川で心の汚れも洗ったにちがいない。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 9章 失われた日本人の面影
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