トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 言葉とともに日本人から失われた大切なもの その2
外交評論家 加瀬英明 論集
不満を解消するために、怪しげな新しい製品やサービスをつぎつぎと求めても、すぐに飽きてしまうから、また新しいものが欲しくなる 結局のところは、自分を使い捨てにしている。
カタカナの外来語が、偽りの生活を助長している。 ローンとか、 クレジットというと借金のことであるが、 けっして恥ずかしいことではなくなる。 「ライス」 (御飯)は、食べ残して、捨ててもよい。
いまでも、寿司屋で米粒を「舎利」というが、舎利は本来、釈尊の遺骨のことである米はそれほど、尊かったのだ。「性」は重いが、「セックス」といえば、軽くなる。
カタカナの外来語を用いると、何でも軽くなる。せつかく、先人が数百年にわたって、言葉にこめてきた重さがなくなる。
言葉から、責任感がなくなるのだ。親は「パパ」「ママ」と、まるで「ペペ」とか、まるで「ポチ」とかのペットの犬のような名で呼ばれる。
腹が立つのはNHKが「オープン」するとか、「イベント」とか、「バカンス」「ミュージシャン」「アーティスト」とか、カタカナ語を乱発することだ。
英語ができない者ほど、生半可なカタカナ英語を振り回すものだ ときどき電話があって、「アポをいただきたい」といわれると、「アンポンタンめ」と思う。アポはアンポンタンを略したものにちがいない
簡略字も、おぞましい。「礼」の本字である「禮」は、心の立心偏(りつしんべん)と、豊かさが組み合わされていた。それを略して「礼」になったのだから、餌がついていない疑(ぎ)似(じ)餌(え)の釣り針を表わすようになった。
人が言葉をつくり、言葉が人をつくる。先人から贈られた言葉を粗末にしないで、大切にしたい。
日本が明治以後、目覚ましい発展をとげたのは、徳川時代を通じて、和を重んじることによって蓄積した、徳の力によるものだった。
先の大戦によって、国土が灰塵(かいじん)と化してしまったが、たちまちのうちに復興を成し遂げて、世界第二位の経済大国の地位を獲得したのも、徳の力によるものだった。
ところが、その後、私たちは日本にとっての唯一つの資源である徳の力を、食い潰してしまった。
徳の力は、長い歴史によってつくられた民族性から発したものだ。日本が力を回復するためには、徳という資源を取り戻さなければならない。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 9章 失われた日本人の面影
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