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2月11日に84歳で亡くなったノムさんこと野村克也については、プロ野球の選手・監督時代の実績はもちろん、沙知代夫人とのエピソードまでマスコミでいろいろ取り上げられた。彼は1954(昭和29)年にプロ入りしたが、私も同時期にプロ野球に興味を持ち始めた。
このシーズン最大の話題は、魔球フォークボールを操る杉下茂投手の獅子奮迅の活躍で中日が巨人を抑えて初優勝、日本シリーズも杉下の4完投があって西鉄(現・西武)の猛打線を封じて日本一になったことだ。そして、有望新人の当たり年でもあったのだ。ただし、当時、野村選手はその期待の一員とは思われていなかった。
京都府峰山高校を卒業して南海(現・ソフトバンク)の入団テストを受け、やっと合格するが、シーズン終了後にクビを宣告された。「南海電車に飛び込んで自殺する」とまで言って泣きつき、何とか首がつながる。弱い肩を克服するための筋肉強化など必死の努力を重ね、3年目にレギュラー捕手になる。
南海に同期入団し、すぐ大活躍したのは福岡県門司東高校出身の宅和本司投手だ。1年目の26勝9敗、防御率1.58はともにトップで新人王に輝いた。小学生の私もヒーロー誕生を見る思いだった。翌年も24勝して最多勝に。宅和の快挙で割を食ったのは、岐阜県多治見工業から阪急(現・オリックス)に入った梶本隆夫投手だ。1年目の開幕試合に先発して初勝利、年間で20勝12敗の好成績を残したが、新人王にはなれなかった。20勝をあげて新人王を逃したのは彼だけだという。体格にも恵まれ、その後もパ・リーグを代表するサウスポーとして通算254勝の成績を残したが、なぜかタイトルとは無縁だった。「温厚で無欲な彼らしい」と野村も人柄を絶賛している。
野村捕手が試合で宅和の投球を受けたのは3年目からだが、この年から宅和は不振に陥り、以後6勝しかできなかった。当時の監督だった鶴岡一人は「けがもあったが、心のゆるみもあった」と指摘したが、野村は「酷使に原因があるのは明らかだ」としている。
逆に野村と同じく最初の2年間は芽が出ず、3年目から一軍に定着したのが山形県米沢西高校から南海入りした皆川睦雄投手。サイドスローで直球は平凡だったが、変化球で打者を打ち取る頭脳的投球術だった。8年連続2ケタ勝利の後、壁にぶち当たった。課題は左打者対策で、同期の野村捕手と一緒に考え、「曲がりの小さなスライダー」、今で言うカットボールを開発した。1968年には31勝をあげ、プロ野球史上最後の30勝投手と言われている。通算でも221勝の堂々たる成績を残した。
以上の選手はすべてパ・リーグだが、セ・リーグでは早稲田大学から巨人入りした広岡達朗遊撃手が新人王になった。守備の名人だったが、この年は打率.314で選手時代で最高の成績だった。この人は野村と同様に監督としても優れた手腕を発揮し、独得の野球理論を展開した。
1954年にプロ野球の面白さにはまった私だが、ルーキーについては新人王の2人しか知らなかった。こんなに多士済々で、いろいろなドラマがあったとは思いもよらないことだった。
山田 洋
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