トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「減私」が徳になる日本社会
外交評論家 加瀬英明 論集
さて、英語や、ドイツ語をはじめとするヨーロッパ諸語では、「私」という時には「アイ」(I)か、「イッヒ」(Ich)の一つしかない。ところが日本語では、自分と相手が置かれた地位との関係により「わたし」、「わたくし」、「おれ」、「ぼく」、「小生」、「自分」といったように、いく通りも使い分けられる。日本語がこのようになっているのに対して、ヨーロッパ諸語では相手によって変わることがない。
こういったことは単に習慣の問題に過ぎないと思えるかもしれない。しかし、私自身体験していることだが、日本では社会に対して一定の自分を持つことが難しいのだ。不変の自分といってもよい。相手によって、自分の置かれた位置が揺れ動いてしまうのである。これでは、株価がつねに変動しているようなものだろう。私たちが日常、相手を指すのに使っている言葉の種類も多い。「あなた」、「きみ」、「お前」、「先生」、「先輩」、「社長」、「お客様」といったように、相手と自分との関係によって変動する。これでは自分の絶対値を持ちにくいことになってしまう。日本では自分は自分のなかにあるよりも、周囲の人々のなかに置かれてしまっているようである。そこで自分がつねに周囲によって変わることになる。自分を周囲の人々に預けてしまっている部分が大きいのだ。
私は終戦の年に小学校三年生だったので、敬意を払わねばならない相手に対しては、「ぼく」といってはならないと教えられてきた。「わたくしといいなさい」といわれてきた。ところが、このごろの若者のなかには「わたくし」といわずに、どのような状況にあっても自分を指して「ぼく」という者が少なくない。日本語の最大の特徴は敬語であり、敬語をとってしまったら日本語の美しさはなくなってしまうと思うが、自分を一貫して「ぼく」というのをきくと、時によっては羨ましくなることもある。このような若者たちは永久に変動しない「私」を持っているのであろうか。
日本では「私」を持とうとすると、〝マイ・ホーム型〟とか、〝マイ・ホビー型〟のように逃避的になってしまうことが多い。集団に背を向けることによって、自分を確立しようとするのだから、ひ弱なことである。あるいはサラリーマン雑誌に自分を持つべきだとすすめる記事が載る場合は、独自の発想や、他人が持っていないような特技がある個性的な人間であるほうが、多様化した時代にあって重用されるだろうという計算から、取り上げられるようである。
しかし、そのような打算的な動機から自分を持とうと思っても、持てるものではあるまい。「私」を持とうとするのは、もっと人間にとって根源的な問題である。
日本では、もともと「私」の地位が低い。「私事」、「私見」、「私用」という場
合には公的なものに対して軽くみられるし、「私心」、「私利」、「私情」、「私怨」は悪いこととなっている。辞書をみれば「私意」、「私行」、「私曲」「私言」、「私愛」、「私智」、「私溺」というように、いくらでもある。どうして「私利私欲」に駆られてはいけないのだろうか。「私憤」は恥ずべきものだが、「義憤」は褒められる。「無私」、「減私」は徳であると考えられている。
二月には、日商岩井の島田三敬常務が自殺するという事件があった。島田氏が同社の社員に宛てて残した遺書が新聞に載っていたが、そのなかでは「会社の生命は永遠です。その永遠のため私たちは奉仕すべきです。私たちの勤務はわずか二十年か三十年でも会社の生命は永遠です」と述べられていた。おそらく「会社は永遠」であるというのは、島田氏と同じ戦中派の世代の人々には理解できることなのだろう。私の年令になると、自分の上に会社を置くことには、かなり抵抗がある。それでも大企業に働くエリート社員であれば、ほとんどの者が程度の差はあれ、共感をえたかもしれない。ある大会社に働く友人にきいてみたところ、「わかる気がしますね」といった。
この遺書を読んで、私は「会社」という言葉のなかに「社」という字が入っていることに気がついた。「社」は神を祀るところであり、後に転じて「結社」というように、組合や、団体を意味するようになった。「会社」という言葉は、明治になってから英語の「カンパニー」(company)に合わせて造語されたものである。しかし、英語のcompanyは、keep company「いっしょにいる」というように使われたり、「コンパニオン」companionとか、acompanyという同類の言葉が示すように、はるかに軽いものである。Companyはいつでも解けるものであり、いってみれば各ゝのメンバーが必要がある時に乗り、必要がなくなったら降りる乗合いバスのようなものなのだ。
私は英字紙で、この遺書がどのように翻訳されているのか好奇心を持った。すると、「会社の生命は永遠です・・・」というところは、「Our company is eternal,although we serve it only 20 or 30 years. We should devote ourselves to it.」(ザ・デイリー・ヨミウリ、二月三日)と訳されていた。しかし外国人の読者には「会社」が「永遠」であるというところは、わからなかったはずである。「教会」であったら、わかったことだったろうが、一時的に、参加者の便宜のためにつくられる「カンパニー」が永遠であるというのは、言葉の上でも矛盾があるのである。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 一章「ミーイズム」のすすめ
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