トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ “I have”の持つ強い意味
外交評論家 加瀬英明 論集
地方に行ってホテルに泊まると、最近では部屋に聖書が置いてあることが多い。
ある時、聖書をめくっているときに、私はふとヨハネの福音書のなかに出てくるキリストの言葉が、いったい英語でいったらどのようになっているのだろうかと思った。
「わたしが来たのは、彼らがいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(10-10)という言葉だ。部屋には英語の聖書も置いてあったので、あたってみた。すると、I have come that men may have life and may have it in all its fullness.と書かれている。そして東京に戻ってしばらくたってから、ドイツ語の聖書ものぞいてみた。この言葉は、こう訳されていた。Ich bin gekommen,damit sie Leben haben und es in Fülle haben.
これはキリストの言葉のなかでも有名なものである。キリストがやって来たことによって、人間が罪から解き放されたので、人間は生き生きと生きることができる、という強烈な叫びである。
英語や、ドイツ語で読めば人間は眠っていないで、生命力の限りにいっぱいに生きろという、血が滾るような響きがあるのだ。ところが日本語で読むと、このように燃えるようなところがない。どうも弱々しいのである。
ここで英語とドイツ語とでは、人間が自ら生命を持つというのは、have it,Leben habenであるのに対して、日本語では「それを・・・持つため」といっても、生命を持つというよりは「持たされている」という感じのほうが強い。英語や、ドイツ語であると、個人が生命を持つのに、日本語では共有のものを持たされているようなのである。
I haveというと、きわめて強い。「持つ」対象となっている物にも、「私」の強い執着がこめられている。そして自分の行為まで持つことができる。I have comeとI came’あるいはI have seenとI sawとでは、同じ「私はやって来た」と「私は見た」のであっても、二つの間では強さがちがうものだ。
日本語では「私は鉛筆を持っている」といっても、鉛筆が共有物であって、私が預かっているように聞こえる。自分だけの鉛筆だ、という叫びがないのだ。
「私は金を持っている」、「金を持っている」、「私の金です」といっても、共有物である金を一時、預かっているような感じが強い。I have moneyとか、my moneyというよりも弱いのである。
日本人の生活のなかからは、have欠落してしまっているように思える。それだけ自我が希薄なのだろう。そういえば最近、東大の法学部の助教授が盗作事件を起こして、辞職するということがあった。イタリアのローマ法学者のパトルスについて書いた論文の中心の部分が、イギリスの学者の著者から、そのまま写していたというのである。もっとも、このような盗作事件は後を絶たない。日本人どうしで写し合うことも多い。
そのうえ、こういった教授に対する社会の糾弾もかなり緩いものである。たしかに新聞の社会面を一時賑わして、たいていの場合、非難された教授は失職してしまうが、その後は、おそらく周囲の人々から、「気の毒なことだった」といって許されてしまうことだろう。
これは日本では学者は個人であって、創造的であるよりも、学習するべきものだと見做されるということがあるからだろう。自分の考えとか、作品といった意識が希薄なのだ。学問や、知識や、あるいは意見すらも共有物であるといった考えかたが強いのである。
そして物だけではなく、あらゆることについて「私の」とはっきりということができない。I have seen,I sawというと、私が見たのだ。誰が見たのか?あなたでも、彼でも、彼らでもない。私が見たのだ、ということになる。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 一章「ミーイズム」のすすめ
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