トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 仲間関係は反社会的なもの
外交評論家 加瀬英明 論集
日本はきわめて保守的な社会だ。自民党の領袖たちの顔触れをみても太平、福田、中曾根、田中、宮沢、三木といったように、みな岸内閣か、あるいはそれ以前にすでに要職についたことがある者だ。たしかに中川一郎や、河本敏夫といったように、次の世代のリーダーとしての人々の口の端にのぼる者もいる。しかし自民党は、もう二十年以上も出演者がほとんど変わっていない劇のようなものである。
こういったことは、何も自民党に限られているわけではない。社会党、民社党、新自由クラブについても同じことがいえる。体質的にさほど変わらないのだ。国会議員をみると、二代目か、あるいは秘書が、地盤を継いだという者が多い。こういった人たちは、新人とはいえない。これは世襲の一つの形であって、先代が変装してできたようなものである。
アメリカをみれば十年という期間をとっただけでも、政界はまったく新しくなっている。ニクソン、フルブライト、フォード、ゴールドウォーター、マンスフィールドといったように、十年前に力を持ってきらめいていた政治家のうち、ほとんどの者が過去の人になってしまっている。新陳代謝が激しいのだ。今日、アメリカは上下院とも、ほぼ半分が一年生議員となっている。日本のように一度権威を持ってしまうと、めったなことではずり落ちない社会とはちがうのだ。
日本人は「新風」という言葉が好きだ。日常生活においても保守的な人間関係によって、がんじがらめになっているからであろう。「新しい」というだけで魅力があるのだ。欧米では「新しい」というだけでは、人々が引きつけられることがない。日本は風通しが悪い社会なので、潜在意識のなかで変化への憧れが強いからなのだろう。
三年前に新自由クラブが結成されてから、しばらくのあいだはヤングの政党ということで、人気を博した。新聞が新しいもの好きだということもあったが、新自由クラブが保守主義を支持してきた若者や、自民党の下部機構の活動家のあいだで、高齢者が若い世代の頭を抑えて澱んでしまっているというのに対して、鬱積していたフラストレーションの格好な捌け口になったということがあったからだろう。それでも新自由クラブを結成した幹部が、一人を除いてはみな二代目であったというのは皮肉なことだった。
保守的であるのは、けっして政界に限ったことではない。経済界、学界、ジャーナリズムから、芸術家の世界までいえることである。
日本は論理よりも、人間関係によって動く社会である。そこで人脈を多く握っている者のほうへ力が集まる。和の社会であるから、人々が結合する中心点にいる者は、地位を失うことがなかなかない。そして、このような地位を占めている者は、次第に高齢化してゆく。
日本人は集団の和を求めるので、和を壊すようなアイディアに対しては強い警戒心が働く。新しい意見や、独創的な意見はなかなか受け入れられない。そこで知的にも保守的にならざるをえない。
そこで現状を変えようとすれば、佐藤首相が好んでいったように上に立つ者が「蛮勇」を振わねばならない。しかし事実は、佐藤栄作は「人事の佐藤」といわれただけあって、人間関係を操ることに長けていたので、「蛮勇を振う」ようなことは何もしなかったから、八年間にわたって政権を維持することができたのだった。
日本では信条よりも、仲間であることが大切だ。日本人は会社とか、クラスメートとか、同郷人であるといった疑似的な家族関係によって結ばれている。そしてこのような仲間関係は、広い社会に対して結束し、助け合うことが前提となっている。社会に対して庇い合うのである。そこで仲間は社会と敵対するものだといってもよいだろう。仲間関係は、反社会的なものである。
だから日本人には公共という観念が薄い。仲間であるかないか、ということによって敵と味方の識別が行われる。公共意識が欠落しているところがある。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 一章「ミーイズム」のすすめ
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