トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 相手に合わせる機能を持つ日本語
外交評論家 加瀬英明 論集
日本人は仲間意識によって結ばれているので、仲間の共同の利益が何よりも優先される。政党であれば政見や、政策といった論理よりも、情実によって結ばれている派閥の利益が優先されることになる。それだから戦後の政治には政策論争が欠け、人事に終始してきた。
私たちは誰もが日本独特な会社や、組織のバッジをつけているのを見ても分かるように、グループへの帰属心がきわめて強い。帰属心というよりも、依頼心といったほうがよいのかもしれない。何であるよりも先に、グループの一部なのだ。この結果、日本では「私」の地位が、きわめて低いものになってしまう。そして「私」に自信をいだくことができないのだ。
信念は、個人から発するものである。集団の信念というのは怪しいものである。ところが日本では、集団の意向のほうが強い力を持ってしまっているので、個人のなかに信念や思想が、しっかりと根を下ろしていない。かつてラフカディオ・ハーンが日本人にとって思想は「精神的な衣装」にしかすぎないといったことがあるが、信念も、信条も脱いだり着たりすることができるのである。
日本人は、互いに合わせようとする。私たちは互いに話している時にも、できるだけ相手の意向に沿おうとする。日本語の言葉としての機能には、自分の意見を相手に伝えるというよりは、相手に合わせるというほうが強いのではあるまいか。
日本語のもう一つの機能は、一方的に自分の願望を表すことである。日本では昔から「言霊」といって、言葉に呪術的な力が備わっていて、言葉が発せられると、その内容どおりの状態をつくりだす力があると信じられてきた。万葉集に「ことだまの幸わう国」という表現がでてくるが、言葉にはこのような霊的な力がこもっており、幸福が生ずる国であると考えられたのだった。
そこで「平和」と揮毫した掛軸をかけておけば、あたかも平和になるような雰囲気が醸しだされる。そして政治の面へ広げれば、「平和」とか、「全方位外交」とか口にすることによって、それが実現するような錯覚が起こってしまう。どのような手続きを経れば、そのような状態が生まれるかということには、あまり注意が払われない。そのうえ言葉は意見を伝達するよりは、景気づけに使われるし、言葉と現実とが遊離してしまいやすい。
日本語にはこのような性格を持っているので、どうも対話に向いていないようである。現実と言葉とがかならずしも一致する必要がないので、互いに一方的な願望を述べることになってしまうのだ。聖書のヨハネの福音書には「初めに、ことばがあった。ことばは神であった」という有名な言葉で始まっているが、ここではことばはそのまま事実なのである。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 一章「ミーイズム」のすすめ
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