トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 島倉千代子の歌には切ない情念がある
外交評論家 加瀬英明 論集
三月に、私は地元の新聞社の招きで、青森市へ行った。
市の外に出ると、ところどころにまだ雪が残っていた。二日目には、弘前市へ行った。帰りはもう一度青森市まで戻って、電車で三沢に出て、飛行機に乗ることになっていた。
青森駅までくると、まだ出発まで一時間以上あった。そこで新聞社の人々と、駅前の新町通りにある青森グランド・ホテル最上階にある、バーまで上った。
窓際に腰をおろすと、十二階からは青森湾が一望のもとに見えた。右には夏泊半島が突き出ており、津軽海峡に抜ける水平線は霞んでいた。すぐ眼下に、埠頭があった。細い防波堤が張り出して、鷗が群れていた。「あれが浅虫温泉のほうですよ」と説明をきいているうちに、湾のなかに連絡船が入ってきた。
赤と白に塗り分けられた連絡船が、なめらかな海に白い線を引きながら、岸に近づくと、タグボートが寄っていって押しはじめた。左下には鉄道線路がのびており、終わったところが青函連絡船の波止場になっていた。青森駅も見えた。
私は青森は、初めてだった。そして駅を見ていると、『津軽海峡・冬景色』のことばを思い出した。「上野発の夜行列車降りた時から、青森駅は雪のなか」それから「北へ帰る人の群れは、誰も無口で、海鳴だけをきいている。私もひとり連絡船に乗り、こごえそうな鷗見つめ泣いていました」だった。
私は演歌が好きだ。おそらく日本人で演歌を好まない者は少ないことだろう。そういえば昨年末に、島倉千代子さんと会う機会があった。
ある週刊誌から、島倉さんと対談することを頼まれたのだった。というよりは、島倉さんと会うことになった数日前に、週刊誌の編集部から電話があって、「私の憧れている女性」という通しテーマで、シリーズの対談を連載しているが、誰がいいでしょうか、とたずねられたのだった。とっさに私は、「島倉千代子さんか、都はるみさん」と答えた。そして「ほんとうは都さんではなくて、島倉さんなんですよ」と、急いで付け加えた。
編集部から、また電話があって、偶然、島倉さんの時間が数日後にあいているということだった。当日、私は出がけに思い出したので、一年前に新聞に載った、テレビのビデオ装置の広告を捜して持っていった。広告のなかで推薦文を書いたのだったが、島倉さんのファンで録画するのを楽しんでいると結んだものだった。私は暇があったとしても、ニュースか、朝のNHKの農村便りの他には、テレビをめったに見ることがないが、新聞の番組欄で島倉さんの名前を見つけると、スイッチを入れることになる。それで、一人でいても拍手することになる。
会った時に、私は島倉さんに歌はもちろんのこと、見たところにも、とてもひかれています、といった。その前の夏だったか、週刊誌のグラビアに島倉さんの水着姿の写真が載っていたことがあった。そこで切り抜いて仕事場の壁に貼っておいたところ、付き合っている女性がやってきて、あっという間にはがされてしまった。そして、そう島倉さんにもいったが、水着が似合わないところにも魅力があった。
島倉さんの当日の洋装も、そうだった。黒いベルベットの襟がついた、赤いツーピースだった。若い芸妓が、高価な洋服を着ていても、どこかそぐわないところがあるように、板についていなかった。見たところにも、演歌の雰囲気が充分にあった。
そういえば、会った実物の島倉さんは、ずっとうつむきがちで、今にも消え入りそうな声で話した。何か一所懸命に堪えているようなところも、よかった。想像どうりだったので、私はすっかり嬉しくなってしまった。
私は島倉さんの歌の他に、都はるみ、美空ひばり、小柳ルミ子のテープも持っている。なかでも私が島倉さんのファンになっているのは、歌がうまいのはもちろんのことだが、語りが上手だからだ。ひばりはきっと戦後最大の歌手だろう。しかし語りとなると、島倉さんのほうがか弱く、消えいるようで、切ない情念がこもっている。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 二章 「演歌」にみる精神構造
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