トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ カラオケにみる自己表現のいじらしさ
外交評論家 加瀬英明 論集
この数年間、カラオケ・ブームが全国を覆っている。新聞の広告をみていると、〝家庭用〟のカラオケ・セットまで売っているようである。
私も時々、バーや、スナックにゆくが、歌をうたえる店だと、客がかわるがわるマイクをとって歌うことになる。親しい者どうしであると、マイクを奪い合うような光景もみられる。
私も歌うのは好きなほうだ。店のなかでは、私の顔をみると、ピアニストが私のいつもの歌を弾きだすところもある。私は自分でも上手だとはけっして思っていないが、下手でも歌えるのがカラオケの良いところである。もっとも誰でもマイクを握ると、突然、エゴが拡大するものだ。結婚披露のパーティーでもマイクを握ると、エゴが膨張する人が少なくない。エレクトロニクス時代の落し子の一つなのだろう。
しかし今日のカラオケ・ブームには、異常なものがある。第一、このようなカラオケ・ブームが存在するのは、日本だけである。そういえば韓国人も酒の席で歌うのが好きだが、日本のカラオケ・ブームにもっとも近いのかもしれない。
カラオケは、男がもっとも生き生きとしてみえる時である。下手でも、上手でもよい。歌っている三分から四分ぐらいのあいだ、自由に、いっぱい自己表現ができるのだ。そして居合わせた人々が喝采してくれる。もっとも、そうだとはかぎらない。せっかく歌ったのに、友人たちがホステスとの会話にでも熱中していて無視されてしまうと、ちょっとだけ失意を味わうものだ。
しかし、夜、バーや、スナックでマイクを握って歌っている男たちが生き生きとしてみえるほど、いったいこの人たちは日中、これほど生きた瞬間を持ったことがあるのだろうか、と思うのだ。これほど晴れやかな顔をすることがあるのだろうか。日本人―といっても男たちであるが―は、日常、集団のなかで縛られて、自分を殺して生きているので、カラオケの三分間のうちだけ、せいいっぱいに自己を表現できるのではなかろうか。
カラオケはお誂え向きだ。結婚披露や、会合で挨拶をする時には、「私のようなものが・・・」とか、「諸先輩をさしおいて・・・」、「不肖私が・・・」といったように前置きをしなければならない。ところがカラオケなら、このようにへりくだる必要はなく、ただマイクを手にすればよいのだ。
そうはいっても、カラオケを歌うことがどれだけ自分自身の表現となっているのかというと、けっして個性的なものではあるまい。その間だけは人々の中心になって、自分の舞台を持てるので、エゴを満足させることができる。ストレスの解消には、いちおうなるだろう。しかし演歌の歌詞は、みなよく似ている。
やはりカラオケのなかで、もっともよく歌われるのは演歌であろう。そういった店には、かならず『演歌』とか、『歌のミリオンセラー』、『明治・大正・昭和二〇〇曲集』といったような本が十冊ぐらいは用意してあるものだ。そして演歌の歌詞といえば、強い自己否定が行われているものが多い。「わたしゃ悲しい酒場の花よ」(『女給の唄』)とか、「赤い夕日も身につまされて」(『国境の町』)といったように、「どうせ」、「つらい」、「涙」、「忍ぶ」というような言葉が並んでいる。別れや、さすらいをテーマにした歌が多いのも、今の自分から抜け出したいという、果たせぬ欲望があるからだろう。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 二章 「演歌」にみる精神構造
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