トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ ”大型都市”東京の忙しさ
外交評論家 加瀬英明 論集
岡山で講演があったので、朝八時に新幹線に乗り、夜十時すぎに東京駅に帰ってきた。八時間以上も、新幹線に乗っていたことになる。
椅子はゆったりとしているし、外の景色もきれいだ。世界でもっとも贅沢な列車の一つだろう。もっとも食堂車の食事だけは、新幹線のどの列車に乗っても、いただけない。どうしてあのようにまずいのだろうか。どの料理をとっても同じ味にしてしまうのには、才能が必要だと思うほどである。
新幹線に乗る時には、本や、資料をどっさり持ってゆく。もっとも眠ってしまうことが多いが、起きていれば、邪魔されないで読んだり、あるいはぼんやりとしていることができる。
それなのに、食堂車からひっきりなしに従業員が物を売りにくる。
「ウイスキーにジュースにビール、ワインにお酒、レモンスカッシュにおつまみはいかがですか」「ウナギ弁当に、サンドイッチに、シュウマイはいかがですか」「ホットコーヒーにサンドイッチはいかがですか」「アイスクリームに、カスタード、プリンはいかがですか」「お土産はいかがですか・・・」
かわるがわるやってくる。手でかかえてくることもあれば、金属製の音をたててワゴンを押してくることもある。
海外で列車に乗ると、そういうことはない。これは日本独自の現象である。どうでもよいことなのかもしれないが、私はどうしてなのか、ちょっと考えてみた。
日本の世界は、せわしい。街頭に出れば、スピーカーがつねにがなりたてている。交番からドライバーや、道路を横断する人々への注意だったり、商店街の宣伝だったりする。デモ隊、右翼の宣伝カーがあげる叫び声、選挙の時の連呼、デパートや、喫茶店に入れば喧しくバックグラウンド・ミュージックが鳴っている。観光地の騒音・・・。
私たちは騒音に対して、寛容であるようである。アメリカや、ヨーロッパの都市ははるかに静かなものだ。だから旅行して日本に戻ってきて、街中の騒音を聞くと、ああ日本に帰ってきたのだ、と思う。しかし、日本人は外国の人々よりも騒音に耐えられるというよりも、ほんとうは騒音を求めているのではなかろうか。どのような音でもよいから―といって隣のアパートのピアノの稽古や、街工場の機械のガチャンガチャンというような音を別にして―あったほうがよいのではないだろうか。
いい古されたことであるが、日本人は〝緊張民族〟だといわれる。外国で日本人どうしが出会うと目つきでわかる、というようなこともいわれるが、日本人はどこか落着きなく、鋭い目つきをしているという。このようなことは日本人自身によっていわれている(おそらく外国人がいい始めたことではあるいまい)のだから、自分でも気がついているのだろう。都会に住む日本人は、いつも焦ら立っているのだ。
あるフランスの詩人―だったと思うが―が、都市を動物に譬えて、北京とパリは猫型であるが、ニューヨークと東京は犬型だといったという。猫のようというのは、ゆったりとしているということで、犬みたいだというのは落書きがないというのだ。といっても、私はニューヨークをよく知っているが、ニューヨークのほうが東京よりも、はるかに静かで、ゆとりがある。たしかに忙しく、仕事が律している街だ。しかし東京と較べたら、東京は躾の悪い犬なのだろう。
街頭でも、デパートでもラウドスピーカーがつねにプーカプーカ音をたてている。「もうすぐ信号が変わります。歩行者の皆さんはお急ぎ横断して下さい」「こちらは丸の内警察署交通広報班です。きのう東京都内では×名の死亡事故がありました。亡くなった方の家族は、非常に悲しい思いをしています。お互いに交通ルールを守って、交通事故をなくしましょう。歩行者の皆さん、道路を歩行する時はまわりをよく見て歩いて下さい。考えごとや、お喋りをしながら歩くことは非常に危険です」(後のほうは、日比谷の交叉点にある交番に用意されているテキストから写させてもらったものである)
実際、このように煩わしいと、ほんとうに大切なことを考えられなくなってしまう。家に帰ると、家では一日中、テレビをつけっぱなしにしている。
大切なこととは何かというと、自分とはいったい何なのか、自分の本質は何なのだろうか、と考えることである。だから年に一回は十日以上の休暇をまとめてとって、夫婦か、あるいは家族といっしょに静かな浜辺へでも行って、過すべきなのだ。自分を取り戻せるような時間が必要である。ところがほとんどの日本人はグアム島や、サイパン島といった、ミクロネシアの美しい島に家族と行っても、精力的に島巡りをして、三、四日で疾風のように東京へ帰ってしまう。
日本人が忙しくしているのは、自分にとって大切なことを考えないようにするためではなかろうか。そこで「私」を持つことができなくなってしまうのだ。おそろしいことだが、一生、没我のまま過してしまうことになる。子どものように、つねに何かによって関心を散らされていないとならない。
企業への異常な忠誠心も、このような土壌のうえにあるからこそ、存在できるのではないか。私たちが働きづめで、勤勉だというのも、こんなところから発しているのかもしれない。
私たちはつねに駆り立てられている。何かに身を預けていないとならないのだろう。ゴールデン・ウイークの休日になると、数日間で数千万人の人々が移動するが、仕事の時とまったく変わらないようなスケジュールをたてて動く。働く時と、休む時の発想が同じなのだ。
新幹線に乗ると、ひっきりなしに物売りがやってくるのも、一つの騒音である。一人にしてくれないのだ。海外に旅行する先で知人や、紹介を受けた人の世話になると、相手はできるだけこちらが一人にならないように気をつかってくれるが、一人にしてはならないという集団のルールが働くようである。日本では、一人にしてはならないのだ。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 三章 「喧騒」からの脱却
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