トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 必要とされる「食・住・衣」への転換
外交評論家 加瀬英明 論集
それにしても日本の街に、これほどまで落着きがなくなってしまったのは、日本の文化的な混乱と関係があるのだろう。
最近の日本人の服装がよくなったことは、驚くほどである。十年ほど前の東京の街頭風景の写真と較べると、女性だけでなく男性も服の選びかたから着こなしまで、格段とうまくなったようである。ファッションがそれだけ多くの人々の生活のなかに定着したのだろう。
しかし街並みや、インテリア―屋内のつくりを考えてみると、日本のファッションはいくら粋に装ったとしても、いってみれば額縁のない絵のような物なのだろう。もっともこれは無理ないことである。日本の欧化の伝統といったらせいぜい百年ぐらいのものだ。
ヨーロッパや、アメリカには伝統と富の厚みがある。もちろん西洋の歴史だということはいうまでもない。街全体の調和の美しさといったものがある。そして屋内にも同じような時間の重さがある。建築のなかと外は、魚の表裏のように一体となっているものだ。ファッションはほんとうは、こういった舞台装置がないと映えないのだ。
フランク・ロイド・ライトは「建築はその環境に対して、眉が顔にあてはまるように溶けこまねばならない」という言葉をのこしているが、日本でファッションだけが浮きあがってしまうのは仕方がないことなのだろう。私たちはまだ西洋的な街並みや、建築や、インテリアを使いこなせるまで慣れていない。日本の街並みは混乱している。といって日本人が西洋を完全に模倣することはあるまい。模倣しようと思っても、部分的にできるものでしかない。
そういえば、いつか私はドイツで半分戦災で壊れた教会が、破壊された部分を超モダンな建築で補っているのを見たことがある。なかへ入ると右半分が中世の伽藍のままで、左半分は超モダンな建築である。それでいながら内から見ても、外から眺めても二つの部分は調和している。バッハのフーガでAテーマとBテーマが同時に鳴ることがあるが、ヨーロッパでも、アメリカでさえも過去が現在のかげで自然に鳴っているだ。一つの生活様式が続いているのだ。
日本では過去と現在がいっしょになっていない。そして日本的なものと、亜流の西洋の模倣が混り合って、さらに日本的なものまで安っぽくしかつくらないように悪い影響を与えてしまっている。たまに美しい、伝統的な日本建築があったとしても、もう街の一部とはなれない。
日本ではまた、もう大昔から衣類が食住よりも大切にされてきた。宗教的なものがあるのかもしれないが、日本文化をみると絢爛豪華なのは衣類だけである。「衣食住」という言葉は中国語からきているのだろうが、日本ではこの順序のとおりに衣が先ばしっている。英語では、この順はfood,shelter and clothes(食・住・衣)となる。日本では住がつねに遅れてきたのではないだろうか。
私たちは、洋服が一般化してしまったのをとってもそうであるように、同じ伝統の発育といったものがない。私たちは混沌としたもののなかから、何か新しい生活様式をつくっていかなければならないのだろう。私たちの生活がどこかきまり悪く、落ち着かないのも、生活様式が混乱しているからなのであろう。私たちを取り囲む物は、結局は自己の生活表現なのである。
そうなると街の見かけとか、インテリアも、案外、深刻な問題をはらんでいることになるのかもしれない。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 三章 「喧騒」からの脱却
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