トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 贅沢とはよいものを選ぶ目
外交評論家 加瀬英明 論集
ニューヨークのもっとも洒落た通りは、五番街だ。フィフス・アベニューには、サックス、ロード・アンド・テイラー・バーグドルフ・グッドマン、ボンウィット・テラーといったデパートが軒をつらねている。そしてショーウィンドウには、しばしば冬には夏物、夏には冬物が飾られている。
反対のものが置いてあるというのは、ちょっと天の邪鬼のようだが、冬であれば多くの人々が厳しい寒さを逃れて、バーミューダーや、フロリダへヨットや泳ぎを楽しみに行くからだ。アメリカ人にとって贅沢といえば、バカンスである。ところが日本では、デパートへ行っても季節に外れたものは置いていない。いつか冬に外国へ行くことになった時に、都内のデパートで水着や、サンタンローションを買おうとしたことがあったが、売っていなかった。店員は当然のことのように「それは夏物でございます」というのだ。
たしかに日本では、季節感を大切にする。春といえば桜、秋なら松茸、もみじ、というように決まっているのだ。といっても日本も国力が大きくなり、海外へ旅行する者も増えているので、ちがった季節のものを置くようにしてもよいのではないだろうか。冬にハイビスカスを季題としてもよいような時代に生きているのである。
ニューヨークは、アメリカの富の中心でもある。そういったこともあって、ニューヨークの店に並んでいる高級品は、まったく同じものであっても、東京で見るような〝高級店らしさ〟がない。日本では高級品、あるいはよい品物は、高価で、舶来だというイメージがどうも今だに強いようなのだ。それに「贅沢」というのは英語では「ラクジュリー」(luxury)とか、「デラックス」(deluxe)というが、アメリカではこのような言葉をめったに聞くことがない。
贅沢をしていることに気がつかぬのが、ほんとうの贅沢なのだろうが、そういえば日本では戦前、戦争中に「贅沢」という言葉がよく使われたものだった。中年以上の者であれば、当然に贅沢だと考えられたものを、今日では贅沢だとまったく感じることなく、日常身の回りで使っている。ほんとうに贅沢なことである。
ニューヨークの中流以上の人々だったら、高級品だからということで品物を買うことはしまい。贅沢なものだからといって求めるのでは、そのまま貧乏のアンチテーゼとなってしまう。それよりも自信を持って自分に合う、よいものを選ぶ目を持っているというほうが、ほんとうの贅沢なのだろう。目が肥えているというが、そうすることができる人が高級品を自分の一部とすることができるのだ。
当然よいものは、長持ちする。一生使えるようなものだ。そして持ち主はよく手入れして、大切に使う。女性のドレスでも、七、八年は着るだろう。しかし日本人の場合は、自分にほんとうに合うというよりは、高級品であるということから求める人々が少なくないので、高級品であっても使い捨てになってしまうようである。
ニューヨークで贅沢な人々は、意外に簡素―シンプルなものだ。食事をしても、昼食に招かれても、ほとんどの人がダイエットをしているといって、アボカドのサラダだけということが多い。日本でいったら、乾パンだけといったようなものだろうか。それについでにいえば、女性の化粧も薄いのだ。
日本では贅沢というと、どうも品物が中心となった贅沢になってしまうようである。これは婦人のドレスをみるとわかる。日本でも才能のある婦人服デザイナーは少なくないのだが、ほとんどのドレスは完成されすぎている。いい変えてみれば、デザイナーの自己主張が強すぎるのだ。ちょっと意地悪くいえば、デザイナーの自分の個性の主張ばかりが目立つのである。たまに東京で時間があると、通りがかりに足を止めて高級オートクチュールのショーウィンドーを見ることがあるが、レースや、大きな花がついていて、このような服を買った女性は宝石をつける場所もないのではないか、と思うのである。
ニューヨークのパーティーや劇場で、ちょっと素敵な女性だなと思うような女性に出会うと、意外にあっさりしたドレスを着ているものである。よいドレスには空白のファクターといえるものがあるものなのだろう。そして着る人によって映えるのである。空白のファクターは着る人の美しさや、素養によって埋めるべきものである。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 四章 「贅沢」という名の「貧しさ」
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