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1970年代前半に日本の格闘技界に一大ブームを巻き起こし、33歳で忽然と姿を消した人の死が3月末に報じられた。伝説的存在になった沢村忠(本名・白羽秀樹 享年78歳)という元キックボクサーだ。
彼は幼少時から空手師範だった祖父から空手を仕込まれ、日本大学芸術学部映画科に入学すると剛柔流空手部に籍を置く。猛稽古もあって全日本学生空手選手権で優勝し、「蹴りの白羽」の名は知られるようになった。彼の才能に注目したのが、日本キックボクシング協会を立ち上げたばかりの野口修だった。
野口に口説かれ、1966年4月、1試合だけのつもりで本場タイの元・フェザー級王者と闘い、蹴りが決まり勝ちを拾う。もう1試合と頼まれ、やはりフェザー級のタイ人選手を相手にするが、計16度のダウンでKO負けし、全身打撲で入院する。「再起は無理か」と思った野口に「もう1回やらせてください」と沢村は言ったのだ。
タイの伝統的格闘技ムエタイに空手などの要素を加えたキックボクシングが注目され始めたのは沢村の活躍による。彼の必殺技、真空飛び膝蹴りが見る者を引きつけた。相手に近寄り、高く飛び上がって膝蹴りを見舞わせる。抜群の跳躍力を持つ沢村ならではの技で、ノックアウト率は高かった。
野口会長はテレビ放映に強くこだわり、ついにTBSで放送されることになる。沢村の真空飛び膝蹴りに人気が集中、ピーク時には30%を超える視聴率を獲得した。そうなると他局も別の団体と提携して放送を始めた。1969年には「少年画報」に沢村を描いた『キックの鬼』(原作・梶原一騎 作画・中城けんたろう)が連載開始され、さらにアニメになってテレビ放映される。
しかし、キックボクシングの隆盛は沢村人気がもたらしたもので、彼が故障すると興行が成立しないのが実情だった。責任感の強い彼は、客を満足させるために見せ場作りにこだわった。それで自らを危険にさらすこともあった。
彼には「27歳が格闘技の限界」という考えがあったが、1973年1月に30歳になり、この頃から体の異常の予兆が見られるようになった。それでも勝ち続け、この年の日本プロスポーツ大賞を受賞した。プロ野球で三冠王を獲得した巨人軍の王選手をおさえての受賞だった。
32歳になった頃には誰もが彼の引退は近いと感じていた。1976年7月2日の試合を終えると、彼は姿を消した。1年3か月後に野口会長の前に姿を現す。後楽園ホールで引退式が行われた。ジムの会長職という話も断り、再び消息を絶った。受け取った功労金も福祉施設に寄付した。
その後、彼に関する情報はほとんど伝えられなかった。1986年12月にスポーツライターの織田淳太郎氏が沢村の住所を探し出し、インタビューに成功した。その時は自動車エンジニアの仕事に没頭していると報じ、世間に流れていた死亡説、パンチドランカー説を否定した。
昨年10月には『沢村忠に真空を飛ばせた男――昭和のプロモーター・野口修評伝』(細田昌志・著 新潮社)が刊行され、話題になった。沢村忠と歌手・五木ひろしを世に送り出した人物として、野口を10年がかりで取材した労作だ。戦前の右翼ともつながる野口家のことから始まり、沢村忠、五木ひろし、さらには銀座の有名クラブのママで作詞家、直木賞作家の山口洋子との関係にまで話は及んでいる。
この本で沢村のことを思い出した人も少なくなかったはずだが、それからあまりに近い訃報だった。
山田洋
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