トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 大勢への順応という欲求不満
外交評論家 加瀬英明 論集
日本の新聞には、欧米の新聞にはみられない、読者からのユーモアの投稿欄がある。諷刺といったほうがよいのかもしれない。朝日新聞では『かたえくぼ』であり、読売新聞では『USO放送』、毎日新聞では『ふんすい塔』と呼ばれる小さな欄である。
時たま、眼にとめるが、この一年ほどのあいだに、以前のものと較べると、こういった投稿のユーモアが明るくなっているような感じがする。この三月に出たなかから拾うと、「『階層帰属意識』だまってたら『中の上』握ってくれた―寿司屋の客 東京・ダメヅマリ」(かたえくぼ)、「『大平さん、二七%の支持率じゃ落第点だね』『もちろん、留年するつもりだろう』杉並・T坊」(ふんすい塔)、「署名で手がふるえる 航空機売り込みで腕をふるった後遺症です―海部証人 神奈川・いしあたま」(USO放送)といったものがある。
二年前の十二月に採用されたなかから拾ってみよう。
「来年は、実質増税 落馬しないよう、しっかりつかまって! ―ウマ年 国民各位どの」(USO放送)、「カラオケブームってなーに?」「財布がカラになってオケラだってことさ 東京テング」(ふんすい塔)、「『安くならない牛肉』皮肉と苦肉ばっかりで・・・―主婦 八王子・亜芳」(かたえくぼ)
こういった日本のユーモアは、暗いところに特徴がある。他のジョークと比べると、のびのびとした笑いがない。圧迫されているとしても、笑いによってはねつけようとするよりも、自虐的である。
日本人は日常生活においてうえから抑えつけられているかたわら、自分のほうからも大勢に順応しようとする。日本の新聞をとってみても、どの新聞も驚くほど似ているといったところに、大勢が存在していることを感じさせる。論調から、紙面のつくりかたまで似ているのだ。本来、多様で自由であるべき新聞までが高度に様式化されてしまっているのだ。
しかし大勢に順応しなければならないという裏では、抑えられた欲求不満がある。そこで先の新聞の投稿欄のように、ユーモアまでが反抗的になってしまう。だからいくらか陰湿なものとなっても仕方がないのだろう。
本来、ユーモアは、ゆとりでもある。ほんとうのユーモアは余裕から生まれてくるものだ。
笑いは硬直した精神を、柔軟に解きほぐしてくれる。私たちの生活のなかには、笑いという消化酵素で分解すべきものが多いのだ。どうも日本では、笑いが全生活に浸透した機能を果たしていないようにみえる。
ユーモアは個人から発するものである。そこで、ある社会にどれだけユーモアが存在するかという度合いは、個人がどれほど自由であるかという尺度ともなろう。
日本人はおかしくない時にでも、ごまかすようにして笑うことが多い。返事をはぐらかすためにも笑う。こういった時には、しばしば相手に対して許容力があることを示すために笑うのである。日本では集団の圧力が強く、集団によって律せられているので、個人が畏縮してしまっている。そこで自然に感情をあらわすよりは、人工的に感情を表現することになっている。
そういえば、日本の子供が「あれ買ってえ!」とか、「お腹が空いたよう!」といって泣く時には、抑えつけられた者があげる悲鳴のようなところがある。子供のころから、日本では抑圧されているのではないだろうか。
福沢諭吉は青少年の教育にあたって、「人心の前に、獣心を養え」という言葉を遺した。福沢は江戸時代の重苦しい日本社会をよく知っていて、そういったにちがいない。獣には、獣がもつのびのびとした美しさと、溌剌とした水々しさがある。自然なのだ。
本来、ユーモアは、のびのびとした社会のものなのだろう。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 五章 「ユーモア」の発想
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