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外交評論家 加瀬英明 論集
日本は戦後、民主主義国家に衣替えしたはずである。いちおうアメリカや、西ヨーロッパ型の自由民主社会を模範にして、自由民主主義社会をつくろうとして出発したはずであった。けっしてソビエトや、中国型の独裁全体主義国家をモデルにしたわけではない。
しかし私たちの周囲をみると、民主主義を危うくするような、さまざまな力が働いている。
新聞をとってみよう。日本の新聞の特徴は、三大紙をとってみれば、何といっても発行部数が大きいことである。大きい順に読売、朝日、毎日新聞とあげてゆくと、発行部数は八百万、七百万、四百万部である。高級紙といわれる新聞が、これほど大きな部数を持っている国は他にない。
もう一つの特徴は、日本の新聞はどの新聞をとっても、基本的には同じだということがある。読売も、朝日も、毎日も、企画や、読物にいくらか変化があっても、取り上げられるニュース、紙面のつくり方、編集方針から、記事の書き方まで、ほとんど同一である。どのニュースが紙面のどの場所に載っているのかということまで、似かよっている。こういったことは、アメリカや、ヨーロッパの他の自由民主社会ではまったくみられないことである。
もっとも同じだというために、便利なこともある。地方に旅行して、駅のキオスクで新聞を買うときには、一紙だけ買えば、およそ他の新聞にどんなことが書かれているか、想像がつくのだ。
そのうえ、地方紙までだいたい同じだ。日本は新聞の普及率では、世界第一位となっている。それに日本ほど、法的に言論の自由が保障されている国は少ない。それなのに新聞が似てしまうのは、皮肉なことである。どこかに見えざる手があって、統制が行われているのではないか、と思えるほどである。
アメリカや、西ヨーロッパでは、新聞は主張も、体裁も、はっきりとちがう。
主張が左から右まで異なる様々な新聞がある。多様である。アメリカや、西ヨーロッパの自由民主主義社会は、多様な意見の論争のうえに成り立っている。ところが日本では、どの新聞を購読しようと決める時には、多くの場合、どこの勧誘員が最初にやってきたとか、何を景品としてくれたか、といったことで決まってしまう。そこで新聞のほうが、景品のおまけのようになってしまう。
第一、どの新聞をとっても同じ値段だというのは、考えてみれば奇妙なことである。これも同じものを売っているからだ。新聞の側からみれば、値段がちがうと高いほうが売れなくなってしまう。
ところが新聞だけではなく、雑誌をみても、みなよく似ている。雑誌と新聞とでは、程度の差はあっても、やはり似ている。週刊誌をとってみれば、『週刊新潮』と『週刊文春』を除けば、表紙はみな若い女性の写真だ。そして、みなグラビアがあって、特集、連載小説、マンガがあるというように、多少のちがいはあっても、パターンが同じである。月刊誌についても、同じようなことがいえるだろう。
どうも日本では、新聞、雑誌のような出版物から、企業で働くサラリーマンまで、互に同一化する力が働いているようである。私たちは、ほんとうは独創性に対して深い不安をいだいているのではなかろうか。もう長い間、隣の人を横目で窺いながら、自分がちがったことをしないように、神経を配って生きてきたのである。華道や、茶道といったような稽古事をみても、高度に様式化されている。個性を超えた形式が存在している。日本文化は、高度にスタイライズされた文化なのであろう。様式化、あるいは形式化したものとみて、安心するところが、私たちにはある。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 6章 新聞にみる「センセーショナリズム」
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