社会
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プロ野球パ・リーグでは千葉ロッテマリーンズが首位をキープし、優勝の可能性が高まってきた。若いファンを多く集め、活気あふれる応援で知られる。埼京線の武蔵浦和駅近くに二軍の球場があり、埼玉にも同球団のファンは多いはずだ。
このチームが今は無き川崎球場を本拠にしていた頃を知る私には今昔の感がある。それを思い出させてくれたのは少し前に東京新聞夕刊に連載されていた大島康徳さんの自伝だ。中日ドラゴンズの強打者だった彼が1987年にパ・リーグの日本ハムファイターズに移籍して驚いたのは観客数の違いだったという。その代表例として川崎球場が写真入りで紹介されていた。「今日、本当に試合があるの」と思わず聞いたほどの観客数で、「実数でいえば、何十人、何百人」と書いている。写真を見れば無観客に近い。大島さんは連載終了間際にがんで亡くなったが、この自伝は「振りきった、生ききった『一発長打の大島くん』の負くっか人生」のタイトルで単行本化された。
私が川崎球場に行ったのは1986年春で、前年に2回目の三冠王に輝いたロッテ球団の落合博満選手の初の著書の編集担当者として、球場売店に本を置いてもらうためだった。用事が終わり、一塁側内野席に座っていたら、守備を終えてベンチに戻る落合選手が私に気付き、目で挨拶してくれた。これも客数が少なかった故のことだ。
チームのファン層が広くないことを意識してか、落合選手は本を売るための努力を惜しまなかった。著者サイン会は何度も開催した。埼玉では上尾市にあったキンカ堂でやった。そのたびに私は車に本を乗せて会場に向かった。
そんな苦労も実ってか、本はベストセラーになった。この年も落合選手は大活躍で3回目の三冠王となったこと、さらにシーズン後、星野仙一さんが監督に就任した中日ドラゴンズへの電撃移籍が発表され、話題が彼に集中したことなどが売れ行きを後押しした。
前出の大島さんは中日で同僚になった落合選手を1年間興味しんしんウォッチし、「まねできない」と思ったという。一例として、バットの湿気を嫌い、ジェラルミンのケースに入れて持ち歩いたことや、他の選手と違って、木目が不揃いで堅いというバットを選んでいたことを紹介している。
そんな落合さんも経験できなかったロッテ球団の優勝は久し振りに実現できるのか?
写真説明:落合さんの最初の著書『なんと言われようとオレ流さ』
山田洋
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