社会
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作家の瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなり、テレビや新聞などで追悼特集が組まれた。縁のあった人々が回想や思いを語っていたが、一人の欠かせない人物が出てこなかった。出家する前からの彼女の編集担当で、一緒に何回もインドを訪ねたばかりか、30年前には湾岸戦争直後で危険に満ちたイラクに同行したH君。寂聴さんより20歳も若いのに7月に病死していたのだ。
彼と私は同じ時期に講談社に途中入社したこともあり、古くからの付き合いで、彼が率いるインドツアーにも2度参加した。文芸編集者という枠にはまらない痛快な男だった。宮城県の資産家の息子として小作争議に巻き込まれ、結束固い小作人たちを相手にしたことや、インドに行くたびに陽気だけどしたたかな現地業者とのやり取りを繰り返したことから、頑固なくらいの粘り強さや図太さ、行動力が培われたようだ。
寂聴さんや遠藤周作さんのように彼を高く評価した作家は多かったが、会社の上司たちからの評価は分かれた。そのような事情からか文芸から別の部門の編集部に異動となり、さらには編集業務ではない裏方の部署に移された。当の本人はその閑な部署の居心地は悪くないと言っていた。会社だけが彼の居場所ではなかったからだろう。
米国軍を中心とした多国籍軍によって破壊されたイラクに寂聴さんと共に薬品を届けに行ったのもこの頃だ。3人きりの旅だったが、寂聴さんはコーディネーターのH君を「どんな困難にあっても動じたことがなかった」(『寂聴イラクをゆく』スピーチ・バルーン刊)と相当な信頼を寄せていた。彼が東京外国語大学の大学院で専門のウルドゥー語のほかイラクの公用語のアラビア語を学んでいたのも心強かったはずだ。
彼女は遺書を書き、命がけの覚悟だったいう。作家の中にはイラク行きに批判的な意見を寄せる人がいて、心が揺れる彼女をサポートしたのもH君だった。
この決死行から何年かして、また寂聴さんから彼に声がかかった。紫式部の『源氏物語』の現代語訳の出版が企画され、自ら編集担当にH君を指名したというのだ。全10巻の社をあげての大企画とあっては、窓際生活を楽しんでいた彼も奮起せざるを得ない。寂聴さんから最後の原稿を受け取った時には彼が落涙したという話が社内に広まり、私は驚いたが、この話も寂聴発かなと思った。
『源氏物語』は大成功で、出版だけでなく関連事業にまで広がっていった。ここでまたH君も絡んだ衝突があり、彼は源氏プロジェクトから離れることになる。定年後はインドの大学で日本語を教えていたが、病気で数年前に帰国せざるを得なくなった。
寂聴さんの講演を聞いていると、話芸の天才かと思うほど面白くて分かりやすい。H君が語る寂聴像も人間臭く意外性がある。どちらも聞けなくなり、寂しくてたまらない。
山田洋
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