トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 客を招くのが下手な日本人
外交評論家 加瀬英明 論集
私もさまざまな席で客としてもてなされることがある。ホテルを使った、大きなパーティーであったり、あるいは少人数の料亭の席であったりする。どのような形式であれ、日本では客は丁重に扱われる。ホテルで数百人以上を招いたレセプションであっても、受付に主催者側の人々が仰々しく並んで迎えて帰りぎわにはお土産をくれる。
私自身このように大切に扱われることは、けっして嫌いではない。いくらか誇張していえば、その間だけは神様になったような気分すら味わえる。ところがアメリカやヨーロッパでパーティーに招かれると、日本と比べたら扱いもごくあっさりして、気取らないというのか、気抜けしてしまうほどである。料理は質素なものだし、土産があるわけではない。日本人が家庭に客を招こうとしないのは、客を大切にしすぎるからである。客に出す料理や、酒は、日常のものよりはるかに豪華なものであるから、どこか神様へのお供えに似ている。料亭とか、接待用につくられているレストランや、銀座の高級バーは内装を凝らしているが、客を祀る神殿のようなものであろう。
私たちがアメリカや、ヨーロッパへ行くと、しばしばレストランや、バーの内装が案外に貧弱で、実質的だと感じる。
日本では、家庭にはごく親しい関係にある人々しか招かないことになっている。親戚とか、クラスメート、会社の同僚、下役といった、内輪な人々だ。それでもそう頻繁に招くわけではない。そして少しでも重要な客を家でもてなすことにでもなろうものなら、家のなかは掃き清められ、よそ行きの装いが凝らされることになる。
ということは日本では、普段のままの家に客を招き入れるべきでないと考えられているからである。そして普段の家のなかでは、家族のあいだに互にプライバシーがまったくなく、勝手気ままに振舞っている。家のなかは乱雑であり、お互にぐしゃぐしゃになったような関係を結んでいる。家庭は外の者が覗いてはならぬ舞台裏であって、外の料亭や、レストランや、バーが舞台に当たる。
内輪の者に見せる姿と外の者に見せる姿は、はっきりと異なっている。これは家族だけではなく、クラスメート、会社といった枠組みによって結ばれた仲間関係についても同じことがいえる。日本では仲間、あるいは内の者であるか、外の者であるかという区別は重要である。仲間は外の者に対して結束し敵対する。日本における集団は、反社会的な性格が強い。この結果として、公共や、コミュニティの意識が育ちにくくなる。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 7章「家庭」のなかの個人
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