社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
318年前の12月14日(新暦では翌年1月末)に赤穂の浪士たちが吉良上野介邸に討ち入り、亡き主君の恨みを晴らしたということで、その日のNHK総合の『歴史探偵』では忠臣蔵の話の謎を取り上げていた。松の廊下の刃傷事件後に吉良邸は江戸城から遠い本所の空き家に屋敷替えさせられたが、そこは暗くて寂しい、討ち入りがしやすい所だった。番組では、幕府が高家(こうけ 朝廷と幕府の間を取り持ち、江戸城内の儀式や礼法を管轄する職)の上野介を煙たがっていて、江戸庶民の討ち入り待望の声を利用し、彼を悪者に仕立てたがったのではとの見方を紹介していた。
領地の三州吉良(愛知県西尾市)では名君とされた上野介もずいぶん損な役回りをさせられたものだが、芝居や映画では彼を悪役にすればするほど興行的には成功した。上野介を演じる役者はそのための演技力が求められた。
私は20歳ぐらいまで忠臣蔵の話には興味がなく、映画館にまで行って見る気はなかったが、1964年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』は1年間見続けた。始まってすぐ浅野内匠頭と上野介の確執があり、上野介を演じた劇団民藝の滝沢修(1906~2000年)がチラッと見せる憎々しげな表情に引き込まれたからだ。滝沢は新劇の代表的名優だったので、畑違いの忠臣蔵ものでの出演はこれだけかと思ったが、今回調べてみたら、1954年の松竹『忠臣蔵(花の巻・雪の巻)』と1958年の大映『忠臣蔵』にやはり上野介役で出演していた。戦前の1938年にも東宝『忠臣蔵』に柳沢出羽守役で出ていたようだ。
映画全盛期に時代劇が売り物だった東映で、上野介役と言えば月形龍之介(1902~1970年)だった。2000年に刊行された『月形龍之介』(ワイズ出版)によれば、1956年の『赤穂浪士 天の巻 地の巻』、1961年の『創立十周年記念 赤穂浪士』と2本の東映オールスターキャスト映画で上野介を演じていた。戦前・戦中には上野介役ばかりか日活と東宝では大石内蔵助の役だった。
この人は日本映画の父と言われる牧野省三のもとにいた後、大衆小説の人気作家、直木三十五(直木賞は彼の名から)と組んで独立プロを立ち上げたことがある。しかし、運転資金にも事欠くようになり、直木に泣きつくと、自慢の自動車を売って用立ててくれた。その後もいろいろないきさつを経て新興の東映に入り、独自の地歩を固めた。
敵役として欠かせなかったが、晩年は重厚さに渋みが加わり、『水戸黄門』が当たり役となった。1954年から1961年まで14本のシリーズの後にテレビドラマ化された。この月形黄門の風貌や衣装がその後の代々の黄門に受け継がれてきたから、彼の功績は意外な形で残っているのだ。
山田洋
バックナンバー
新着ニュース
- 島耕作、50年目の慶事が台無しに(2024年11月24日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR