トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 体罰は日本の優れた伝統
外交評論家 加瀬英明 論集
私が以前からあこがれているものに、座禅がある。
もっとも私のように、ふだんからあまり落着きがない者が禅のようなものをやったら、二日目ぐらいには禅寺から脱走することになってしまうのかもしれない。しかし禅の修行中に居眠りをすると、バシーンと一発見舞われることは、誰でも知っていることである。
外国人も脱帽するほど優れた文化活動である禅の中で体罰を認めるのならば、体罰は野蛮ではなく、むしろよく使えば、つまらない屁理屈よりも、高次元なヒューマン・コミュニケーションなのではないか、と考えてきた。
私は神奈川県の栄光学園の第三期生である。有名大学の合格率では、毎年名前がでる学校である。カトリックのイエズス会が経営していて、とにかく厳しかった。当時は、親が私をこのような学校に入れたことを不運に思っていたが、今となってはよかったことだったと感謝している。しかし、あのころは「グラウンド十周!」といったように、寒い朝など校庭をよく走らせられたものだった。私は殴られたことはなかったが、神父のなかにはいささかサディスティックな者もいて、同級生のなかには、何人か殴られた体験者もいる。
しかし、鉄拳の霊験あらかたで、栄光学園の東大への進学率は大変よいのだ。泣く子も黙るイエズス会のしたたかさによるものである。有名校への進学率によって学校のよしあしを決めてよいものかどうかは別としても、ラサールをはじめとして、厳しい教育を行っているカトリック系の諸校は、みな進学率が極めて高い。進学塾でも、教師が怒鳴ったり、竹刀を持っているようなところのほうが評判がよいものだ。
もっとも私たちは、体罰と聞くと、もはや伝説となった旧陸軍のビンタを思いだすものである。といっても私は戦後に育ったから、人の話を聞いたり、本で読んだだけのことだが、「-省の何年から何年何組までは、ビンタをくらった年代だから、少し脳震盪になっているらしい」などといったことを聞くと、「恐ろしいなあ、かわいそうに!」と内心でいささか涙を催すことになる。
現在でも運動部などには、こういうサディズムが根強く残っていて、ときどき新聞種になる。もっともたまに子供向きのテレビ番組を見ていると、「バシッ!」「ギャオー!」「耐えますっ!」などといったモーレツ場面が少なくない。
もともと日本では、体罰によるコミュニケーションの伝統が強いのであろう。旧陸軍式のビンタは困るが、もっと大きくいえば、日本人は言葉を越えたコミュニケーションの優れた伝統を持っているといえるだろう。
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