トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 子供の時小枝で鞭打たれた大統領
外交評論家 加瀬英明 論集
戦後教育の大きな弱点の一つは、話し合いの効力に対する過信であると思う。学校でも、家庭でも、すぐに猫なで声で「話し合いましょう」とくるから、気持ちが悪くなってくる。身の上相談でも、私なら「そんないまいましい相手は、呪って、忘れてしまえ」と答えるところを、「じっくり話し合いなさい」というのだ。つべこべと、つまらない理屈を女々しくいい合う堂々巡りが、文化的なのだと思っているらしい。
ところが言葉によるコミュニケーションには、ときには限度がある。大脳のごくわずかな部分が働いて、言葉を操っているので、心を言葉という狭い牢獄のなかに閉じ込めてしまうことになってしまう。ゲバ学生にしても、戦後日本の一見優雅にみえる〝お話の城〟に対する、悲しい心の反発なのではあるまいか。一般市民の間でも、欲求不満がテレビのモーレツなシゴキ番組や、スパルタ教育へのノスタルジアとなって現れている。
それでも暴力と、体罰は違うものである。旧陸軍のビンタも、運動会のシゴキも、いわゆる下士官的な暴力は、暴力のための暴力となってしまうのでデカダンとなものである。この背後には、もっとも大切である信念が欠けているのだ。
本来の体罰は、叡智と節度を持って用いられるもので、何百のお説教よりも効くものであろう。座禅の一撃のようなものだといってよいのだろう。理性を越えて、心に直接働きかけるものである。座禅で眠くなった者に対して、現代風に「さあツトム君、お眠りはダメですよ」と説得を試みたとしたら、ますますぐったりとしてしまうものだろう。禅でも、イエズス会であれ、信念を持って殴る時に、体罰は心に沁みるものである。
もちろん、体罰は薬と同じようなものであって、本当に知恵のある者しか使えないものであろう。
私は三年前に、カーター大統領の故郷の村である、ジョージア州ブレインズへ行って、カーター一族と会ったことがある。そして、母親のリリアン夫人にいったい、どのようにして大統領を育てたのか、と質問した。するとリリアン夫人も、妹のグロリア、ルース、弟のビリーも口をそろえて、父親が厳しい躾をしたからだといった。ふだんの父親は子供たちに甘く、優しい人だったが、子供たちが悪戯をしたり、いいつけをきかなかったりすると、庭に出て自分で小枝を切ってこさせて、鞭打ったというのである。
叱るということは、人間をつくる上でどうしても必要なことである。フロイトは、「文明は抑圧である」という有名な言葉を遺しているが、天衣無縫であっては、社会生活を送ることができない。そこでフロイトは子供が理不尽に叱られることがあっても、やがて世の中に出た後に理由なくひどい目に会うことがしばしばあるので、そういった体験に備えることができるといったのである。もっとも、あまりしばしば理由もなく叱るというのは好ましいことではない。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 8章「母親」としての女性
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