トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 言葉はエゴを主張する手段になった
外交評論家 加瀬英明 論集
社会に秩序が必要であるように、家庭のなかでは躾が必要である。そう固く考えなくてもよいだろうが、道路を渡るときに交通ルールを守る必要があるように、学校のなかでも、家庭でも同じようにルールがあることが望ましい。
簡単なことのようにきこえるかもしれないが、案外、難しいことである。おとなの応接間のソファの上に立ってはならないとか、子供が寝る時間には寝かせるといったことである。ところが、日本の家庭では、客がきていても子供がヒコーキを飛ばしたり、そこらじゅうひっくりかえして騒ぎにたてるということが、しばしばみられる。おとなが子供のいうことをきいてしまうのだ。親が子供のいうことをきいているというのは、おかしなことだ。
どうも日本では子供の甘えや、我儘に対して許容してしまうようである。そこで、子供にふりまわされてしまうことになる。何か子供は、台風や、地震と同じように自然の暴力のように考えられているらしい。けじめがつかないのだ。
そこで、幼いときからけじめをはっきりとさせるべきである。台風をそよ風に変えるのだ。
これは意外に大切なことである。というのは子供には叱られたいという欲望があるのだ。叱られることによって、自分の行動半径のボーダーラインを知ることができるのだ。それでないと、子供は情緒が不安定になって、バックボーンのない青年に育ってしまうことになる。非行少年や、ゲバ学生も、このようなところから生まれてくるのではなかろうか。
甘やかすというのは、一見、可愛がっているようにみえても、子供の後の人生に深い傷を与えてしまうことになる。
おとなもしばしま、自分に対して厳しくしなければならないが、子供は自分ではそうできないのだ。だから外から助ける必要がある。
話し合いに対する過信は、口先だけの、きれいごとだけの社会をつくりやすい。このように言葉に対して過大な役割が課せられるようになった裏には、私たちの生活のなかから先祖代々受け継がれてきた、暗黙のうちに了解されてきたきまりがなくなってしまったことがあるからだろう。戦後、日本ではこういったきまりを、封建的だといった言掛かりをつけて、追放してしまった。その結果、黙っていても互いに分かることがなくなってしまった。黙っていても了解されていたことごとから成り立っていた生活様式がおろそかにされた結果、言葉の役割が大きくなったのだろう。
言葉というものは、意外に頼りないものである。今日、言葉が万能になったようにみえるが、言葉は弁解するために使われることが多い。つまり言葉は相手のいうことを聞こうとするよりも、エゴを主張する手段となっている。
こうしてみても、人間は言葉だけで成り立っているのではないことが、分かる。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 8章「母親」としての女性
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