トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「生産財」から「消費財」になった子供
外交評論家 加瀬英明 論集
四月は入学式の季節である。今年は近郊にある私立大学の入学式に招かれて、短い話をすることを依頼された。講堂は新入生と、父兄で賑わっていた。
受験から入学式までの時期になると、テレビのニュースや、週刊誌のグラビアに、父親や、母親にともなわれた受験生や、新入生の姿がしばしば取り上げられることになる。しかし昔は受験や発表に、父親や、母親がいっしょについて行ったものだろうか。私が大学に入ったのは昭和二十九年だったが、発表も一人で見に行ったし、入学式も一人だった。
もう十八歳になっても親がついてゆくというのは、どうも感心できない。自分の判断で独立して物事を処理してゆくべき年齢である。親が構いすぎるのではないだろうか。
これでは子供が自分でやることがなくなってしまう。親のほうからみれば、豊かさとともに余暇時間が増えてしまったので、それだけ子供に関心が向いてしまったのだろう。それに豊かになった結果、子供を持つことが〝高い買い物〟となってしまったので、子供の数が減ってしまった。戦前なら子どもは贅沢させる必要がなかったうえに、家内工業や、田畑で使うことができる生産財であった。それが今日では消費財となってしまった。
両親のなかでも、母親のほうが悪いようである。電化製品が普及して家事が簡単になったうえに、都会に出てくると、隣近所とか、親戚などの付き合いがなくなってしまったし、住居が小さいので外から客がくることもない。そして何よりも子供の数が減ってしまったことが、決定的であった。
このような背景が、〝教育ママ〟という怪物を出現させてしまった。確かに母親が子供に打ち込んでいるというのは、一見、いい母親のようにみえる。
しかし子供に全身全霊を打ち込むというのは、実はうしろ向きなことなのだ。子供のために自分を犠牲にしているつもりでいるから、子供に過大な請求書をつきつけることになってしまう。
そのうえ日本では、母の愛はすべて許されるということになっている。何をしても善意から発してさえすれば、よい。そういえば私も昔、大映の三益愛子の母親物を見て、泣きたいような気持になったことがあった。刑務所に入っている息子のところに急ぐ母親の姿は、考えただけでも胸を打つものである。
しかし、こういった伝統のもとでは、母親は一歩間違えると無法地帯に住むことになってしまう。母親が暴走しやすい環境にあるのだ。これだけ耐えた、と言って請求書をつきつけられる息子のほうは、たいへんだ。お母さんがいじりすぎるから、解放される時間がない。いつも母親の排気ガスをかぶっていなければならない。これでは息子が独立した人格を持つことは難しい。
もともと女は深いものである。どうも女のほうが、個人的な支配欲が強いようである。男のほうが物事を抽象化して、客観的にみる能力が高いように思えるが、女性にはドロドロとして底知れぬところがあって、周囲のものを私物化したがる。
そういえば最近、構いすぎたために、早大高等学院生だった孫によっておばあちゃんが殺されるという事件があった。私はおばあちゃんも気の毒だったが、孫のほうに同情したのだった。
〝教育ママ〟は母親の暴走族である。彼女らは、息子を一人の人間としてみることができずに、私有化してしまうのだ。ほんとうは母親に、そのような権利はない。
だから私は大学のキャンパスや、予備校で、〝教育ママ〟が息子を連れて歩いているのをみると、母親が息子を誘拐しているように思える。母親が誘拐犯人である。人質を連れているようなものだ。
大阪で銀行を乗っ取った梅川昭美の事件があったが、今日の日本には母親という数百万人の誘拐犯人がいるといえるだろう。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 8章「母親」としての女性
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