社会
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日本の裏社会について独自のスタンスで書き続けてきたノンフィクション作家・宮崎学氏が3月30日に亡くなった。この人がまだ早稲田大学に学籍があった1970年に、週刊誌の新入り編集部員だった私は人を介して彼を契約記者の仕事に誘った。取材専門の契約記者は編集部員の何倍も人数がいて、給料ではなく原稿料払いだった。
宮崎氏は商業マスコミの仕事は初めてのはずなのに、取材のポイントを外さず、原稿は簡潔にまとめていた。日本共産党系の活動家だと聞いていたが、その後に私のチームに加わった他セクト出身の記者たちとも協調的な関係を保っていた。
当時は過激派によるハイジャック事件が発生したり、作家・三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺したりと、衝撃的な事件が続発した。宮崎氏は左翼系ばかりでなく、右翼やヤクザ社会にも人脈を持っていて、私にも紹介してくれた。ただ、私は「切った、張った」の世界は苦手だった。その手の記事担当からは「宮崎君を貸してくれ」との依頼がしばしばあった。
数年後、契約記者たちの間で記者会結成の動きが起こった。学生運動の実績があり、記者の中でも存在感を増していた彼もその中にいた。ある日、彼はあらたまった口調で「私は記者会結成のメンバーになっています。もしかすると担当編集者に迷惑をかけるかもしれませんので事前にお知らせします」と語った。他社では記者が労働組合を作った例があるし、私たち社員編集者は出版労連傘下の労働組合の一員ということもあり、特に反論はしなかった。記者会は有名作家たちを応援団に巻き込み、華々しく発足したが、宮崎氏自身は京都の実家が営む建物解体業を手伝わなければならなくなり、2年後には記者の仕事を辞めた。
それから10年近くたった頃、彼は思わぬことで私たちの前に現われた。1984年から翌年にかけて関西の食品メーカーを次々と脅迫し、金銭を要求したグリコ・森永事件の現場リーダー「キツネ目の男」の正体は宮崎氏ではないかとされたのだ。警察が発表した似顔絵は確かに似ていた。あれだけの事件を仕切る能力を持つ人物となると限られてくる。江崎グリコとの過去のいきさつや事件現場の地理的条件など、彼が疑われる複数の理由もあった。しかし、状況証拠だけで決定的なものはなく、事件は未解決で終わった。
そして1996年になって宮崎氏は波乱に満ちた半生を綴った『突破者――戦後史の陰を駆け抜けた五〇年』(南風社刊)を刊行した。京都・伏見のヤクザの親分の家に生まれ、喧嘩に明け暮れた少年時代、日共系学生運動の中で最も暴力的なグループに属した学生時代、新たな人脈を広げた週刊誌記者時代。そして京都に戻り、荒っぽい仕事の中で鍛えられ、ついには重大事件の犯人に擬せられた等々、話の展開は変化に富み、この本はベストセラーになった。
以後、マスコミに登場する機会は増え、執筆活動にも拍車がかかった。日本共産党からも離れ、反権力ながら既成の政治勢力とは組みしない立場を貫く。また、子どもの頃に体験した地域の共同体の仲間意識を大切にしている。それは近くに住んでいた被差別部落や朝鮮人集落の人々に対しても同様である。強引な論理もなくはないが、学者や評論家のとは違ってスゴ味がある直言に触れられなくなるのは寂しい。
山田洋
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