トップページ ≫ 社会 ≫ ナチス占領下のパリで没した孤高の埼玉出身画家
社会
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数年前にさいたま市岩槻区の人から、20世紀初頭に浦和中学(現・県立浦和高校)を卒業してから単身で米国に移民し、働きながら絵画を学び、その後パリに移住し、人気画家となった田中保(やすし)という岩槻出身の人物の話を聞いた。時は第1次世界大戦後の1920年代、パリには多くの画家や文学者が集まった。アーネスト・ヘミングウェイの小説『陽はまた昇る』やアカデミー脚本賞を受賞した映画『ミッドナイト・イン・パリ』(監督・脚本 ウッディ・アレン 2011年)でも描かれた良き時代だ。田中自身もヘミングウェイとは親交があったという。
以来、この人の作品を見たいと思っていたところ、先日の新聞で北浦和駅西口の埼玉県立近代美術館で「シアトル→パリ 田中保とその時代」が開催されていることを知り、喜び勇んで見に行った。出展作品は肖像画、裸婦、風景、静物など約100点。近代美術館所蔵作品を中心に、佐藤栄学園や埼玉りそな銀行からも多数の協力出展がある。田中作品は制作年が明確ではなく、推定期間が表示されていた。
米国のシアトルで田中の絵を高く評価してくれたのは詩人で美術評論家のルイーズ・ゲブハード・カンという女性だった。2人は結婚するが、人種差別や移民排斥運動、さらに田中の裸婦画に対して不道徳だと保守派からの批判があった。田中は妥協せず、自説を主張したが、心はこの地から離れていった。1920年に2人はパリに渡った。
パリではルイーズ夫人の協力もあって精力的な活動を続け、画壇で着実に地歩を固めた。裸婦についても、「美しい線と豊かなフォルムを備え、艶やかで簡潔な表現」と評された。渡仏した2組の皇族夫妻が複数の田中作品を買い上げたりしたが、日本画壇からは無視され続けた。東京美術学校(現・東京芸術大学)を出ていないばかりか、日本人画家に師事したことがなく、パリに来ている日本人画家とも付き合いが少なかった。
ヒトラーやムッソリーニのファシズム政権が台頭すると、日本人画家たちはパリを去ったが、田中には帰る所がなかった。1941年4月、ナチスに支配されたパリで田中は54歳の生涯を終えた。この年の12月には日本はルイーズ夫人の故国と戦争を開始する。
大戦後の1946年にパリの画廊で遺作展が開かれたが、日本では無名のままだった。1976年、新宿・伊勢丹での展覧会が日本でのお披露目になるが、この時のタイトルは「知られざる巨匠・田中保展」だった。以後、再評価され、展覧会だけでなく、出版物でも『知られざる裸婦の巨匠』(浜靖史・著 新風舎 2007年)などが刊行されている。日本の画壇から冷遇された田中保に、温かい手が差し伸べられているのがうれしい。
山田洋
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