トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 実に静かなアメリカの選挙
外交評論家 加瀬英明 論集
宣伝カーは、候補者の名前を派手に塗った看板を上にのせている。宣伝カーや、選挙運動がどのようなものか、あらためて描写することは必要がないかもしれないが、それでも街でみかけるのと、宣伝カーに乗るのとでは、かなり大きな違いがある。街のなかを、候補者の名前を呼びながら走る。
とにかくまず選挙運動は、やかましい。朝から夕方まで宣伝カーに乗っているのは、悪夢をみているようなものである。宣伝カーに乗ると、ひっきりなしに連呼を聞かされる。後部の座席で、学生アルバイトが、二人か三人交替で、マイクを握って、車の通り道を音で休みなく候補者の名前をまきちらしてゆく。そして窓から道ゆく人々に手を振る。
「××××最後のお願いにあがりました。選挙戦も、あと僅か三日、××××堂々と戦って参りました。××××あと一歩というところでございます。何卒皆様の温かいご支援を××××にお寄せ下さいますようお願い申し上げます。お昼下りのご町内をお騒がせして申し訳ございません。こちらは参議院全国区候補者××××の遊説隊でございます。××××最後のお願いにあがりました。選挙戦も、あと僅か三日、××××堂々と戦って参りました・・・」
スピーカーのボリュームをいっぱいにあげて、狭い商店街に入ったり、歩道すれすれにゆっくり走る。
「××××をよろしくお願いします」「がんばれ××、負けるな××。皆さまのご支援を支えにして、××今日も頑張っております。こちらは参議院全国区候補者××××です。ご町内を今しばらくお騒がせします。参議院全国区候補者××××です・・・」
このような連呼を一日中聞かされたら、真剣に働いている学生アルバイトの男女にはとてもいえないが、車を降りるころにはもう痴呆症のようになってしまう。運動員の服装も、連呼も私たちの日常生活のなかでは異常なものである。実際、このようなことが何を示しているのかといえば、日本では政治が日常生活から浮き上がってしまっているのだ。日常生活のなかに組み込まれているとしたら、このような一年一回のお祭り騒ぎのような選挙の形をとるようなことはないのだ。
アメリカや西ヨーロッパの選挙は、もっと静かなものである。アメリカであれば、選挙が行われているということを教えられなければ、気が付くことがないほどである。日本のように連呼による選挙公害もないし、ポスターが街中に貼りだされるということもない。ときおり、横幕や、立看板があるぐらいのことだ。アメリカでも候補者は街頭に出て、商店街で有権者に呼びかけることをする。しかし聴衆が候補者を囲んで輪をつくり、日本よりも熱心に聴く。だから日本のように候補者が通行人や、まばらにぼんやりと立っている人たちに、まるで誰もいない野原に向かって話をするようなことはない。とにかくアメリカにせよ、イギリスにせよ、選挙は静かなのだ。
ところが日本では年一回の七夕祭のようにでも騒ぎたてないと、選挙そのものに有権者の関心をひくことができないのだ。民主主義が上から突然に与えられたものであるので、どうしても選挙が日常性から外れたような催し物になってしまう。そこで日本では民主主義はまだほんとうに国民のあいだに根を下しているようにみえない。民主制度と民主主義のあいだのギャップを埋めるためには、派手なブレザーや性能のよいスピーカーが必要である。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 9章「民主主義」に潜むもの
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