トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 投票は「権利」でなく「義務」だった
外交評論家 加瀬英明 論集
いささか新聞からの引用が長くなるが、三十二年前の私たちを映した鏡にあたる新聞を読むことは役に立つ。四月八日には、「気軽に投票せしめよ」という社説が載っている。
「今度の総選挙ほど、棄権が多いだろうと予想されてゐることはない。棄権がいろくな角度から見て国家的罪悪ともいふべき意味をもっといひ得ることは、しばくわれ等の指摘したところで、明らかであらうと信ずる。・・・総選挙は誰のためでもない、われ等国民のために行はれるものである。
『人民のための、人民による政治』なら、選挙、従って、投票を『われ等のための、われ等による』ものとならなければならない。特に全国の投票管理に当る人々に、気軽く投票せしめよと要請して止まぬ所以である」
そして裏の二面には、「投票はこんな要領で家族揃って楽な気持ちで成可く同
政党へ」という見出しがあって、「投票所の中の様子」という説明がついた図が
載っている。記事のなかには、「配給物なども気をきかせて投票日の前日に受取
るとよい」といった注意がでてくる。
翌日は、投票日の前日である。「天声人語」を覗いてみよう。
「日本人といふものが民主主義化の能力をどの程度にもっているか。米国の識者の中には、大戦時において在米二世日本人がデモクラシィ擁護のため米軍に参加して大いに手柄を樹てた事実に徴しても十分に堪へ得るものと見ている向が多い。現に教育使節団の報告書にもこの点に関する強い信頼が寄せられてゐる。本来の日本人自身は、一種の人の好さと何事にも一所懸命になる性質を持合わせて居り、長所とも短所ともみられるが、指導の如何によっては必ず平和国家の平和国民となり得ること疑ないのである。たゞこの指導なるものゝ仕方が問題なのであって、各自の蒙を啓き、各自の心持がそのまま一国の政治経済の上に具現して行くやうな道を開いて行くのが、民主的な指導方法について考へらるべき点であろう」
昭和二十一年は、まさに〝民主元年〟とでもいえただろう。日本と同じように、
戦前自由を制約され、敗戦によって解放された西ドイツ(といっても、ドイツの
場合は日本よりも徹底して自由が制限されたが)では、戦後このような記事は、
新聞に載らなかったにちがいない。先に引用した社説や、記事では、繰り返し投
票が「権利」であるより「義務」であることが強調されている。民主的諸権利は
歴史を通じて人々が権利として要求した結果、生まれたものであるが、義務は上
から与えられるというよりは強制されるものなのだ。四月七日の社説にもある
ように「突然から授かった・・・なんらの犠牲なく、戦ひ取ったものではない」
というだけに、民主主義の諸権利を上から義務として課さねばならないという
矛盾が行われることになったのである(もっともこの社説では婦人は戦争によ
って苦しむという犠牲を払ってきたので、代償なしに選挙権を手に入れたので
はないと説いているが、日本人が戦争を勝ったから民主主義を獲得したという
のは、無理な議論である)。
さて、投票日の紙面の中央には、「けふだ!さあ行かう投票所へ」という大見
出しが走り、トップに弊原首相の談話が載っている。
「『民主革命』の出発点 生かせ、この一票 世界の眼、結果を見守る 男も女も挙って投票 首相、政治と生活を説く」
という見出しだ。首相談話は
「一票の選挙権より一合のお米でも、一尾の鰯でも余計に配給してほしいと
いふやうな心境も、決して笑ひ事ではなく、つくぐ私の胸を強く打つものが
ある」
というようにいって時代をあらわしているが、
「男子の方も女子の方も、進んで快く、その選挙権を行使して戴きたく、これは単に皆さんの貴重な権利であるばかりでなく、また実に義務であることを私は特に皆さんに強調したい」
という呼びかけでもって結ばれている。そして社説は
「投票は自由に行はれなければならない。今後の総選挙では、一切の政治的自由を制限する法律が廃止されて、法律的には我々は自由を既に獲得してゐる。この上は国民自身が自身の手で、解放された感情と良心を駆使して、投票すればよい」
のだと説いている。多くの他の国民が革命や、反乱によって血を流して自由を手
に入れたことと較べると、「法律的には我々は自由を既に獲得している」とは何
とのどかな言葉だろうか。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 9章「民主主義」に潜むもの
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