トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 新しがり屋は穀物の再生信仰に根づく
外交評論家 加瀬英明 論集
選挙といえば、最近は分裂騒ぎで振わなくなったが、一時期の新自由クラブのブームはたいへんなものだった。
私は新しいものは、警戒することにしている。それにとくに新自由クラブの場合は、胡散臭かった。私はおそらく戦後で、もっとも腐敗していた金権政治家であっただろう河野一郎の財産と地盤によって支えられた、河野洋平という政治家を信頼することができない。ほんとうは馴染みのあるもののほうが、多少欠陥があっても安心できるものだ。慌てずに、地道に欠陥を正していったほうがよい。
ところが日本では新しいというと、それだけでよいことになってしまう傾向がある。ほんとうは「新風」とか、「革新」といったような新しいものに対しては、古いもの以上に警戒心を持たなければならないはずである。新しいものは、魅力的にみえるほど危険なものである。日本人は「新しい」というだけで、惑わされてしまうことが多い。
新しいというだけで眩惑されてしまうという裏には、日本人の体質があるのだろう。古くから新年であれ、初物であれ、新しいものに憧れる、文化的な癖がある。新しいものには新しい魂があるという、穀物の再生信仰が根づいているのだろう。そういえば文学や、美術家の「新人賞」があるのは日本だけのことであって、西洋には存在していない。しかし、とくに政治の分野において新しいというだけで飛びついてしまうには、守るべきものを持っていないという精神的な貧しさがあるにちがいない。
二年前の参院選挙では、新自由クラブの他に、社会市民連合や、結局は一人も当選者を出さなかったが、革新自由連合が登場して、マスコミを賑わした。しかし、いくつもの〝クラブ〟や、〝連合〟を名乗る政治集団が突然に生まれて、人気を博するというのは異常なことである。従来の既成政党に対して、多くの新しい政治集団がつぎつぎと生まれたことは、ジャーナリズムによって華やかに取り上げられ、市民の政治への参加が突如として拡大されたように報じられ、これが民主的なことであるかのように書きたてられたが、私はそうは思わなかった。はっきりとした政策がないのに、「清新」とか、「清潔」、「新しさ」を強調するのは思わしいことではない。形容詞や、スローガンだけの政治は人々に一時的な満足を与えるが、そこには危険な芽がある。
日本では一つの流行ができあがると、強い力を持ってしまう。すると誰もが押し流されてしまうのだ。そういった流れには逆らいにくい。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 9章「民主主義」に潜むもの
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