トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「平等」は目的でなく手段
外交評論家 加瀬英明 論集
「平等」は永いあいだ人類の夢となってきた。少なくとも高度成長が始まるまでは、夢であり続けただろう。はじめて平等な社会が現実に生まれてくるように、みえた。「平等」は、これまであらゆる改革主義者が追い求めてきた者であった。
ところが厄介なことには、「平等」という概念のなかには、善悪の概念がまったく欠けている。私たちは永いあいだ平等になることがよいと考えてきたが、「平等」という概念は、それだけでは道徳とはまったく無縁である。しかし「平等」をあまりにも永いあいだ理想としてとらえてきたために、「平等」そのものが道徳的価値を持っているかのように、錯覚してしまった。
「平等」が目的であるように考えるのは、危険である。これは手段でしかないのだ。道徳によって支えられていない平等社会は、危険なものである。
民主社会では偽政者についても、治められる側の人々についても、性善説をとるようなことはしない。共産主義国では偽政者が誤まると、人民がツケを払うことになるが、民主社会では政権が交替することによって、偽政者がまずツケを払わされることになる。
民主社会は共産主義体制のように、将来に向かってはっきりとした目標を掲げないので、ロマンに欠けている。民衆が耐えればやがて地上に天国がやってくるといった、はっきりとしたシナリオがないのだ。だから保守主義は社会主義と較べて、不確かさに満ちている。しかし、いいかえれば、現実に対処するのに柔軟である。硬直していないのだ。
民主社会は、多様性のうえに築かれている。自由とは結局のところ、多様性のことなのだ。そして多様性は、個人のうえに成り立っている。福沢諭吉が説いたように、個人の「独立自尊」があって、はじめて民主社会が活力をもって、機能する。
ところが平等主義―というよりは悪平等主義は、知性、才能、努力を疎んじるので、健全な経済生活を阻害するだけではなくて、「独立自尊」によって支えられた多様性を否定するので、民主社会自体を脅かすことになってしまう。
悪しき平等主義は、権威を破壊する。ところが、どのような社会であれ、人間が集団をつくって生きている以上、権威が必要である。それに皮肉なことに、社会のなかに多様に存在する権威を破壊すればするほど、一つの巨大な権威が出現しやすくなる。社会主義政権が平等に固執するのは、そのためであろう。
地味な時代に入ったのだから、私たちの民主社会のなかにある落し穴を眺めるのに、よい機会である。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 9章「民主主義」に潜むもの
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR