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外交評論家 加瀬英明 論集
『福翁自伝』を読むと、福沢の個人意識は幼少の頃に芽生えたように思われる。福沢は中津藩の大阪屋敷で生まれ、父の死後、三歳まで大阪で育ったが、母と四人の兄弟と一緒に中津へ帰った。「さて中津に帰ってから私の覚えていることを申せば、私どもの兄弟五人はドウシテも中津人といっしょに混和することができない、そのできないというのは深い由縁も何もないが、いとこがたくさんある。父方のいとこもあれば母方のいとこもある。マア何十人といういとこはある。また近所の子供もいくらもある、あるけれどもその者らとゴチャクチャになることはできぬ。第一言葉がおかしいの。私の兄弟は皆大坂言葉で、中津の人が『そうじゃちこ』というところを私どもは『そうでおます』なんていうようなわけで、お互いにおかしいからまず話が少ない。それからまた母はもと中津生まれであるが、長く大坂にいたから大坂のふうに慣れて、子供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、いっさい大坂風の着物よりほかにない。有合の着物を着せるから自然中津のふうとは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うというほかには何も原因はないが、子供のことだからなんだか人中に出るのを気恥ずかしいように思って、自然、内に引っ込んで兄弟同士遊んでいるというようなふうでした」(『福翁自伝』)
人間は自分が他の人々とはちがっている、という意識を持つことが必要だろう。そして福沢の場合は、子どものころに自分が周囲と異なっているという意識を持たされたのだったろう。おそらくこの幼児体験が、のちの福沢をつくるのに役立ったにちがいない。
福沢が訴えたかったのは、四民の平等であり、個人の自由であった。
「旧幕府の時代、東海道にお茶壷の通行せしは、皆人の知る所なり。其外御用の鷹は人より貴く、御用の馬には従来の旅人も路を避る等、都て御用の二字を附れば石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古よりこれを嫌ひながら又自然に其仕来に慣れ、上下互に見苦しき風俗を成せしことなれとも、畢竟是等は皆法の貴きにもあらず、唯徒に政府の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威と伝ふものなり」(『学問のすすめ』)と論じているが、
「天理人情にさへ叶ふ事ならば、一命をも抛て争ふべきなり。是即ち一国人民たる者の分限と申すものなり。前條に云へる通り、人の一身も一国も、天の道理に基て不羈自由なるものなれば、若し此一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず」
というのにいたっては、よほど自分を尊び、自由な人間でなければ書けないこと
である。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 10章 福沢諭吉と「自由」
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