トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 外国語が選挙で使われる恥ずかしさ
外交評論家 加瀬英明 論集
できるだけ日常生活のなかで外来語を使うことをやめて、日本語で考えて、話したいものである。
数年前に、イギリスの一流新聞であるザ・マンチェスター・ガーディアンが、日本人は英語を自国語のなかに取り込んだうえで、歪めてしまうという記事をのせたということが、新聞に紹介されていたことがあった。それでなくとも、英語の氾濫はすさまじい。
ある時、私は新聞のコラムに国語のなかに外国語が氾濫しているのは嘆かわしい、と書いたことがあった。すると原稿を渡してからすぐに、文化部の担当者から電話があった。短い原稿のなかに、外国語が三つもでてくると注意された。私が無意識に書き込んでしまったものだった。私は赤面した。私は慌てて、「ルール」といったような英語を、日本語でいい替える言葉を捜したのだった。
日本語のなかに、外国語が無神経に入りこんでいるのは、困ったことである。私は決して外国を嫌って、そういっているのではない。しかし、当然日本語でも表現できるところに外国語をもってくると、ほとんどの場合は書いたり話したりしている本人も、受け手のほうも、外国語が十分にできるだけではないので、浅薄な言葉を使っていることになってしまう。といって、戦争中のように外国語はすべていけないといって追放しようとすると、不便であるし、滑稽なことになってしまう。だが、外国語をよくわからないのに、頻繁に使うのでは、地に足がつかない生活をしてしまうことになる。
この前の参院選挙中、北海道へ行ったことがあった。街にはさまざまなポスターが貼られていた。そして夜、スナックに行った時に、カウンターの向こう側にビラがとめてあった。横書きである。
「互いに問い、共に考えよう
LET‘SGO
町村金五
KIN-GO の後援会」
おそらくスナックの主人が、この候補者の支持者だったのだろう。KIN-GOと洒落たつもりのようだった。そして小さなポスターの下のほうには、「DO!」と書いてあった。Dが青色、Oが緑で、!が赤い。私はKIN-GOだけでびっくりしていたところに、DO!を見て、すっかり悲しくなってしまった。DO!は、おそらく「やろう!」という意味のつもりなのだろうが、英語ではこれだけではまったく意味がない。判じ物である。
羽田に着いてから高速道路が事故で渋滞していたので、都心まで下を通って帰った。大森から品川に抜けるあいだが混んでいた。窓の外を眺めていると、「ACTION!TOGETHER新自由クラブ大田区支部結集の集い」というポスターが、目にはいった。私はもう一度憂鬱になった。
私はここで英語が誤っているからといって、眉をひそめているのではない。たしかに意味もない間違った英語を気ままにつくって、得意気に使うというのは恥かしいことである。しかし日本語という日常使っている国語を持っているのに、互にあまりよく理解できないカタコトを、それも選挙という重要な生活の場で使うのでは、真剣さを欠いてしまうことになる。第一、使っているほうも受けてのほうも、よくわからないというのは、不便なことだ。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 11章 「日本の伝統」に学ぶ
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