トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「ご飯」と「ライス」では意味がちがう
外交評論家 加瀬英明 論集
もっとも、こういったことは選挙だけに限らない。怪しげな外来語が、日常生活のなかに大量に入り込んでいるのだ。選挙よりは、日常生活のほうが重大である。
最近では、子供に両親を「パパ」、「ママ」と呼ばせる家庭が多い。食堂では「ご飯」というよりは、「ライス」というほうが多くなっている。マイ・ホーム、セックス、デート、レジャー、ローンといったように、しれにあたる日本語の言葉があるのに、日本人の生活のなかで外国語を使うことがふつうになっている。
「パパ」、「ママ」と呼ぶのに対して、ことさら眉を顰めることもないと思うかもしれない。「パパ」が父親のことであるのはいうまでもない。しかし「パパ」という時には、「お父さん」という一家の家長であり、神聖な稼ぎ手であるという日本語の言葉にこもっている権威がない。言葉は何千年にもわたる生活を通じて、今日持っている意味がこもったものであり、そのなかには何代にもわたる祖先の知恵がやどっている。もちろん英語で「パパ」という時には、英語民族が父親に与えている重さがこもっている。
「ライス」というと、食べ残したら、すぐに捨ててもよいものとなってしまう。感謝の気持をよび起こすことがない。「米」や、「ご飯」という時には、言葉のなかにお百姓の労苦とか、穀霊がこもっているものだ。そこで「稲田」と英語でいうことができないのならば、使うべきではないだろう。
「ライス」というと、きわめて即物的になる。同じように「セックス」というと軽くなるが、「性」といえば重い。なぜ重いのかといえば、もともと「性」は人生において重要なことであり、長いあいだにわたって使われてきた言葉は当然のことに、そのような重さを反映している。「借金」というと重いが、「ローン」というと軽くなってしまう。
「パパ」というと物わかりがよい、寛容な父親像が浮んでくる。「ライス」には、食物の有難さという概念が欠けている。このごろの子供は「ハンバーグ」、「スパゲッティ」、「カレーライス」といったように、全てカタカナで書けるものばかりで育つが、どのようなおとなになるかちょっと心配である。そして私たちは「ホーム」や、「ハウス」や、「ファミリー」を手に入れたかわりに、「家」を失ってしまった。この結果、家庭に備わっているべき、「家風」が、なくなってしまった。
もちろん、日本語ではもとの意味を十分に表現できないような、外国から入ってきた概念については、外来語を使うことが必要である。しかし日本語の言葉のもってきた重さや、責任感から逃れるために外来語を使うことは、きわめて危険なことである。父母、性、主食、借金といった、毎日の生活に基本的な言葉まで、ひろく外来語を使っている国は、世界のなかで日本以外に例がない。ちょっと考えただけでも、おそろしいことだ。
安易に外国語を使うことは、日本人の生活を混乱させ、貧しくしている。日本語を不具にすれば、私たちの心が傷つく。よく説明できない言葉を用いて行動する人々は、生活態度が安逸になる。できるだけ日本語を使って話し、考えたいものである。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 11章 「日本の伝統」に学ぶ
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