トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 日本の都市には尊厳がなくなった
外交評論家 加瀬英明 論集
日本の都市は、どうして、これほどまで醜くなってしまったのだろうか?都市では喧噪で、落ち着きがないところだということになっている。人間が忙しく働き、刺激の強い娯楽を求めるところであって、ゆとりがないというのが、都市生活の特徴であるように考えられている。どうして、東京や、大阪、名古屋といったような日本の大都市は、こうも慌ただしく、苛立たしいのだろうか。
活気があるといえば、そうだ。たしかに、パリや、ローマや、ロンドン、ニューヨークといった西洋の都市は、こうではない。私はアメリカや、ヨーロッパに行くたびに、私が日本で知っている都市とは違うことに気がつく。
私はことさらお洒落ではない。ふだん、ジーンズとポロシャツのような格好でいることが多いので、何かの時に背広を着て、ある人と会ったら「へえ、背広を持っているんですか」といわれたことがある。テレビに出演したり、講演や、会議や、背広を着ていることが期待されるような席がないかぎり、ネクタイを結んでめかしこむようなことはしない。といっても二十代までは、かなりお洒落のつもりでいた。しかし、ある時、東京で身なりを整えても仕方がないや、と思った。
せっかくめかしても、芝居の背景のような都市がないのだ。これは女性にとっては、もっと気の毒なことである。どのように着飾ってみても、額縁がないか、背景のない絵のようなことになってしまう。日本では街が美的観念を失っている。
日本の都市は明治から始まった西洋化によって、文化の統一性を失ってしまった。アメリカや、ヨーロッパの都市には、途中で破壊されることがなかった、一つの文化が持っている落ち着きがある。動物のなかに自然に備わる、内的均衡のようなものだといえるのかもしれない。
もっとも、かつての日本の都市にはこのような内的な均衡があっただろう。安藤広重の〝名所江戸百景〟をみると、江戸はじつに美しい街であった。しかし、西洋を解体して部分的に取り入れるようになってから、日本の街は混乱してしまった。そして、いわゆる近代化が進むほど、無政府状態をつくっていった。
最近、戦後史の写真集を買ってきてページをめくっていたら、一九五五年に正田美智子さんが皇太子と結婚したときの馬車のパレードの光景がでてきた。もう見慣れた写真であるが、典型的なキッチュ―俗悪なもの―である。皇太子や、皇太子妃がそうであるというのではない。ヨーロッパ調の馬車が走ってゆく背景に、ビルがあると思うと、トンカツ屋だとか、八百屋の看板がある。
それにしても、最近の商店の看板は、醜悪なものになってしまった。板にただペンキを塗ったものだ。昔の看板は額縁があって、尊厳が感じられたものだった。
このような小さなものでも、都市に住んでいる者にとっては、意外に大切なものだ。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 11章 「日本の伝統」に学ぶ
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