トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 街は本来自分のもの
外交評論家 加瀬英明 論集
日本の都市の建築的な混乱はひどい。唐突に超高層ビルがたっていると思うと、二階屋のバラックがある。もっともモダンな街の一つといわれる六本木をとれば、流行の先端をゆくようなビルがたっているかと思うと、その隣には小さな乾物屋がある。東京(あるいは日本の大都会)ほど、異質な空間がひしめき合っている場所はない。これでは精神の危険をつくりだしてしまう。意識レベルがでこぼこなのだ。乾物屋のなかで座っているおやじは、案外、明治の意識を持っているかもしれない。しかし隣のモダンなビルのなかでは、青年が座ってサルトルを読んでいるかもしれない。意識のレベルがなだらかでないのだ。
といって、日本の伝統文化へ戻ろうとすると、逃避主義者になりやすい。結局は、混沌とした街のなかへ、また放り出されてしまう。
もっとも、日本の都市が混乱しているのは、日本人が文化の統一性を失ってしまったほかに、日本人に公共の観念が欠けていることも原因となっていよう。街全体が自分のものであるというような意識が、希薄である。
西ドイツでは街の中に新しい建物を造るか、改造する場合には、街全体の調和を維持するために、屋根の傾斜の角度や、色まで規制を受ける。いわゆるバウポリツァイ(建築警察)がいて、目を光らせているのだ。といっても、日本のように都市全体が巨大な雑居ビルのようになってしまっていては、どうしようもないかもしれない。表通りほどではなくても、住宅街についても同じようなことがいえる。住宅地のブロック塀は美的観念がなく、色や、質感からいって醜い。
それに日本の都市は、東京に人口が異常に集中しているありかたをみても、人が住むところであるよりも、人が集まるところになってしまっている。日本では都市にもヒエラルキーがあって、ふつう東京がもっともよいところだと考えられて、人々が出口を求めるように殺到することになる。あるいは外国からの文物の取入れ口となっているので、外国からくる光を浴びようとして、集中するのかもしれない。とにかく、お上りさんの集まるところとなっている。都市の魅力は、住むところではない。だから、都市は愛されていないのだ。
今日の日本の都市においては、衣食はいうまでもなく、住むところをはじめとして、建物までが消費される対象となってしまった。しかし、都市までも消費してしまってよいものだろうか。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 11章 「日本の伝統」に学ぶ
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