トップページ ≫ 社会 ≫ テレビはなくても野球が興奮に満ちていた時代
社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
70年近く時代をさかのぼるが、日本のプロ野球において1954年は新しい時代を予感させる年だった。セ・リーグで中日、パ・リーグで西鉄(現・西武)がともに初優勝し、有望新人も多数登場した。私がプロ野球に夢中になったのもこの年からだった。
しかし、5月に西鉄の最強打者だった中西太さん(享年90歳)、6月に中日の大エースだった杉下茂さん(享年97歳)が相次いで亡くなり、オールドファンとしては寂しい限りだ。怪童と呼ばれた中西さんは前年に続いて本塁打王、杉下さんは魔球フォークボールを操り、32勝12敗で最多勝、防御率も1.39でトップだった。
前年にテレビ放送が開始されたばかりで、ラジオの実況放送と月刊の野球雑誌が私たちの情報源だった。ラジオのアナウンサーの「杉下、またフォーク!」という興奮気味の声は今も憶えている。人さし指と中指でボールをはさんで投げると聞いていたが、杉下さんの投球を映像で見たことはなく、想像の中で魔球の魅力をふくらませていた。
杉下さんが明治大学野球部にいた頃、同部技術顧問の天知俊一さんから「米国大リーグにフォークボールという変化球がある」と聞かされ、試行錯誤を重ね、独学で投球法を会得したのだという。無回転で揺れながら大きく落ちるので、打者のバットに当たらず、捕手も捕れなかった。しかし、この魔球を封印してしまう。大学の先輩から「投手はコントロールが第一」と教わり、自分で変化をコントロールできないフォークで打者を打ち取るのは潔くないと思ったからで、打撃の神様と言われた巨人軍の川上哲治選手以外にはほとんど放らなかった。
チーム初優勝がかかった1954年には事情が変わった。中日の監督になっていた天知さんから「優勝したいなら、もっとフォークを投げてくれ」と頼まれたのだ。技術的にもフォークを自在に投げられるようになっていた。日本シリーズでは、中西、大下、豊田、関口ら強打者が並ぶ西鉄から3勝をあげ、日本一の原動力になった。
伝説的名選手たちが一斉に飛躍したようなこの年にプロ野球にのめり込んだのは、幸運でもあり必然だったのかもしれない。
山田洋
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR