トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 生活に活きている神道
外交評論家 加瀬英明 論集
ごくたまに宗教の話になる時に、私が神道こそ現代にもっともふさわしい信仰だろうというと、驚く人が多い。私は海外に行く機会も多く、国際政治を専門としているので、どうやら国際人(よくわからない言葉である)であると思われているためであるらしい。
このあいだ新聞の書評欄で、あるタイの女性が「仏の国から神の国へ」という本を書いたということが紹介されていた。何でも書評によれば、日本は東洋のなかで集団の義務意識が強く、鉄道一つとっても時間どおりに動く、規律が正しく、能率の高い、唯一つの社会になっているといったような内容であるようだった。私はこの本を買いたいと思ったが、忙しさに紛れて、そうするのを忘れてしまった。だから、本の題名も定かでない。
そこで、この本のなかで神道について触れられているのかどうか、わからない。しかし日本が神道の国であるということによって、他国と異なっていることは事実である。案外、このタイの女性は仏の国からやって来ただけに、日本が神の国であることに気がついたのだったかもしれない。しかし、私たちはこのようなことを忘れがちである。
私は母がキリスト教徒であるので、小学校の五年か、六年生のときから、教会に通った。中学を卒業するころには、もう教会へ行かなくなってしまったが、今でも国内や、外国で教会の前を通ることがあると、懐かしさを感じることがある。
そこで、私はキリスト教についても、体験的に多少知っている。キリスト教では教会に行っている間、あるいは神に対して跪いている間の時だけが、宗教的な時間となるようである。しかし神道では宗教的なものが、生活時間の全体にゆきわたっている。
新年には都会でも、まだ七草粥をつくる家が多いだろう。今年はスーパーマーケットに行ったら、七草のバックというのが売っていた。手に取ってみたら、三種類だけ入っていた。正月七日に七草粥を食べると、万病をのぞくといわれている。七草粥を食べないと何となく落ち着かないものだ。今年いつものように鏡餅を割って入れたが、鏡餅には日本では霊が宿っていると考えられてきた。キリスト教ではマンナとよばれるパンは神聖なものであり、霊の象徴である。キリストがパンを「わが体なり」といったことから、ミサでは信者がマンナを食べるが、神道における鏡や、鏡餅と同じように円形をしている。
ついこの間まで、日本では正月を迎えるのあたっては、多くの地方で家長が家の外に小屋をつくって、身を潔めて待つということが行われた。私は七草粥を羽織袴を着てつくったものだったという婦人に会ったことがある。日本人の生活にとって、祭祀は大切なものであったのだ。
私たちの生活には新年だけに限らず、神聖なものが多かった。日本人は神々や、神霊が宿っていると考えられた自然に対して、畏敬の念を持って暮らしてきたのだった。そういった畏敬の念が、二十四時間のすみずみにまでゆきわたっていたのだった。もっとも、こういったことは形式だけになってはなるまいが、内容と形は同じほどに大切なものである。
個性の時代 ミーイズムのすすめ 11章 「日本の伝統」に学ぶ
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR