トップページ ≫ ≫ 江戸は世界最大の壮麗な都市だった
江戸は壮麗な都市だった。将軍家康の次世の慶長四(一六〇九)年から、江戸に滞在したスペイン人のドンん/・ロドリゴ・デ・ビベロは、「江戸の施政はローマ人による施政と競うもので、注目すべきことが多い。市街はすべて一様に幅広く、長くまっ直ぐで、スペインの市街より勝っている。家は木造で、少数が二階建てである。外観はわれらの家屋が優れているが、内部が美しく、彼らの方がはるかに勝っている」と、記している。
ビベロはスペインが領有していたフィリピンの高官だったが、慶長二年に日本に漂着した。周防会陰との交易を求めた家康の依頼によって、二十数人の日本人を同行して、ヌエバ・エスパニア(新スペイン)と呼ばれたメキシコへ渡った。
同業者が集まって、町をつくっていた。大工町、染め物の紺屋町、石町、畳町、鍋町、桶町、材木町、野菜果物の青物町、鍛冶町、炭町、鞘町、乗物町、旅籠町、鉄砲町、馬の売買の馬喰町、材木町、白壁町、江戸歌舞伎の中心の芝居町、人形芝居の人形師が、ふつうの人形もつくって売った人形町といったように、業種が町名となっていた。銀座は徳川家の主城があった駿府の銀貨鋳造所を、江戸に移したことに由来する。
江戸は百二、三十万人か、百四十万人あまりの人口を擁していた。このほかに、多くの旅行者が滞在していた。ロンドンや、パリを凌ぐ世界最大の都市だった。ロンドンの人口と言えば一七五〇年に六十七万人であり、パリが一八〇〇年に五十万人に達した。
庶民も、武家も、豊かな都市生活を謳歌した。江戸は全国から集まってくる武士や、庶民によって、観光都市としても繫栄した。広重の『江戸百景』は、江戸にあった多くの観光スポットを描いている。
江戸後期の文人の太田南畝(一七四九~一八二三年)が江戸の賑わいを描いているが、「五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店」と、記している。一楼は小さな料理屋であり、一閣は堂々落とした大きな料亭を指している。まるで今日の東京か、ニューヨークか、パリか、ロンドンの見聞記のようである。
エンゲルベルト・ケンペル(一六五一~一七一六年)はドイツ人医師、博物学者であり、長崎の出島で一六九〇年から九二年まで勤務した。このあいだに、商館長に随行して江戸に二回、参府した。
ケンペルは『江戸参府紀行』のなかで、江戸の日本橋の印象を、「行きかう大名、小名、幕府の役人などの行列、美しく着飾った婦人たち、ヨーロッパの軍隊のように隊伍を整えて行進する褐色の皮
羽織の消防隊、軒を連ねる呉服商、書籍商、薬種商などの商家。路上に大きな露店が並ぶ。だが、豪華な行列に見慣れている江戸の人々は、微々たるわれわれの一行には目もくれなかった」と、描いている。
今日でも日本橋に本店がある三越百貨店は、越後屋呉服店と呼ばれた。十九世紀初期に、越後屋一店だけでの年間の売り上げが七万四千両あったから、二十万石の藩の年貢収入を上回っていた。
店内は町民によって」、いつも溢れていた。引札と呼ばれたチラシを配って、客を呼び込んだ。顧客の大多数が、庶民だった。
江戸府内では、大名が頻繁に通ったから、町民は大名行列に出会っても、土下座する必要がなかった。
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