トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 儀礼が律する清潔な循環型社会
外交評論家 加瀬英明 論集
儀礼が江戸町民の生活を律していた。礼節を重んじていたことが、社会に秩序を与えていた。
商いが神聖な行為にまで、昇華した。このようなことは、世界のなかで日本だけにみられたことだった。
暖簾はその象徴だった。暖簾は老舗を指して「暖簾が古い」とか、新しい店を「暖簾が新しい」というように、商店そのものを意味した。暖簾は店の信用を、表すものだった。
暖簾は日焼けを防ぐとか、単なる目隠しや、飾りではなかった。暖簾は神社の鳥居と同じように、結界を示す者であり、その内側が商いを修行する神聖な場となっていいた。結界は宗教用語で、神社の鳥居のように修行のために、一定の区域を区切るっことである。
暖簾は濃紺か、藍紺だった。真ん中に店の印を抜いて、左下に屋号が入っていた。表暖簾は新年を迎える度に新調され、元日に神棚に供えて、大願成就を祈ったうえで、切り火をして店頭に掛けた。
暖簾は神聖なものだった。火事を起こしたときには、まず暖簾を持ち出した。
江戸時代を舞台にしたテレビ・ドラマに、黄色や、桃色の暖簾がでてくるが、不勉強なことだ。テレビのディレクターも、今日の軽佻なインテリア・デザイナーの発想に染まっていて、江戸時代の商人の精神を理解していない。
商人は「暖簾を汚さない」とか、「暖簾の手前、ヤクザな品は売れない」というように、「実意」をこめて商った。
「実」と書いて「まこと」と読ませたが、うそ偽りがないとか、誠実で、欺かないまごころを意味した。江戸時代には、実意が人々生活を律していた。今日の日本では、実意という言葉が、死語になっている。
暖簾は命にかえて守るべき信用を、表していた。出入り半纏や、職半纏は盆と暮れに、商家から職人に贈られたが、暖簾と同じように神聖なものだった。
テレビ・ドラマに、職人が威勢よく半纏をまとって喧嘩する場面がでてくるが、そのようなことはありえなかった。半纏を脱ぐか、屋号を染めた印半纏を裏返しにして着たうえで、喧嘩をした。江戸時代の日本は神聖なものによって溢れていた。
江戸は清潔な都市だった。ドン・ロドリコ・デ・ビペロも、江戸の「道路が清潔なことは、何人もこれを踏まざるならん思われるほどである。」と、描いている。
江戸期の日本人は、物を粗末にしなかった。だから、捨てるものが少なかった。ゴミを各自が、自宅まで持って帰った。
江戸期の日本人はエコロジーの分野において、無駄がない、循環型社会をつくっていた。今日の日本人にとって、良い手本となるものである。
今日、ロンドンや、パリや、ニューヨークを訪れると、歩道に短い間隔でウエイスト・バスケット(屑籠)が置かれている。日本ではこのようなことがない。私は東京の都心に住んでいるが、東京駅まで歩いて二十五分ほどかかろう。着くまで、屑籠が一つもない。
江戸時代の日本は、庶民まで知的な向上心が旺盛だった。
世界のなかで、庶民が数多くの学者を生んだ国は、日本だけである。中国、朝鮮では、科挙に合格した者に限られた。ヨーロッパでも僧侶と貴族だけが、学問と取り組んだ。
あらゆる階層の日本人が教育を重んじて、研究熱心だった。身分差別があっても、学問については、平等性が高かった。
町人の出の学者をあげてゆけば、きりがない。伊藤仁斎(一六二七~一七〇五年)、青木敦書(一六九八~一七六九年)、本居宣長(一七三〇~一八〇一年)、本多利明(一七四四~一八二一年)、山片蝶桃(一七四八~一八二一年)がいるが、そのごく一部でしかない。
青木敦書は、蘭学の基を開いた。本多利明は和算家であり、山片蝶桃は日本で初めて地動説を唱えた。
傑出した儒者であった浅見絹斎(一六五二~一七一一年)、室鳩巣(一六五八~一七三四年)も、その師の山崎蘭斎(一六一九~八二年)も、海保青陵(一七五五~一八一七年)も、庶民の出である。
農民としては、石田梅岩(一六八五~一七四四年)、二宮尊徳(一七八七~一八五六年)っをはじめとして、数多くの優れた学者が輩出した。
徳の国富論 資源の小国 第一章 徳こそ日本の力
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