トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 三公七民で収穫量が四倍に
外交評論家 加瀬英明 論集
徳川時代といえば、農民が過酷な年貢に喘いでいたという、イメージがある。たしかに、徳川期に入った時には、年貢率が七公三民といわれた。そのようなことから、年貢のひどさが語り伝えられたのだろう。家康が「農民は生かさぬよう、殺さぬよう」といったと、信じられている。
このような状況は、長く続かなかった。四代将軍家綱の治世(一六五一~八〇年)半ばから、年貢率が下がりはじめ、六代将軍家宣(一七八〇~一七〇四年)から、つぎの家継の治世(一七〇四~一六年)にかけて、二割八分九厘まで落ちた。
世界でも課税率が大きく下がったのは珍しいが、三公七民に逆転した。そのかたわら新田開発が進み、米の耕作面積が江戸時代を通して二倍になり、収穫量が四倍に増えた。
日本の人口は江戸時代を通じて三千万人あまりで、大きな増減がなかった。たまに不作や、凶作に見舞われることがあったが、食糧の供給が潤沢になった。日本人が一日二食から、三食を摂るようになったのは、江戸時代に入ってからだった。
経済が発展するなかで、農村も繁昌する都会の恩恵を蒙って、商品・貨幣経済に取り込まれていった。農民も欲心ではひけをとらなかった。そのために、農商工の区別がつけにくくなった。
農商兼業の農かが、珍しくなかった。全国にわたって農民のなかから、酒、醬油の貯蔵、織物、(染料)、蝋、綿、和紙、俵物(俵詰めの食品などの商品)、金融、廻船などをはじめとして、事業を営む成功者が現われた。その証しとして、今日、地方に農民の広い屋敷や、農民の寄進によって建てられた、大きな寺が多く残っている。
近郊の農民が都市住民の園芸趣味にあてこんで、天秤棒に植木や草花を担いで、行商いした。草花の種も売った。天秤棒を担いだ行商人は、棒振りと呼ばれて親しまれた。
江戸時代の全国的な飢餓といえば、寛永十九年(一六四二)年、元禄八(一六九五)年、享保十七(一七三二)年、天明二(一七八二)年、天宝四(一八三三)年に起こった。なかでも、天明と天宝の大飢餓は、規模が大きかった。
天災地変や、大火、疫病、百姓一揆、都会では米屋の蔵の打ち壊しなどの、騒動が起こった。しかし、一過性のもので、また泰平の世に戻った。
江戸時代の時間は、日照時間にしたがった。夜明けを“明六つ”として、日没の直後を“墓六つ”と定めた、日照時間を尺度とした不定時法が行われていた。
“明六つ”“墓六つ”が、それぞれ六等分されて、“一刻”とされた。季節の変化によって、昼夜の長さに合わせて、“一刻”の長さが変わった。いまでも、おやつというが、昼食と夜食の間の午後三時前後の八つの刻からきている。
夏には日中は遅く、夜に入って時を速く刻み、冬は逆になる。和時計が、造られた。このような時計は、世界で他になかった。日本では職人の技が、優れていた。そして、中国や、朝鮮と違って、匠が尊敬されていた。
明治に入って太陽暦と定時法が採用されるまで、不定時法が行われていた。
私たちは機械的な時間によって支配されるようになったが、それだけ自然から遠ざかるようになった。
時間も、自分だけのものではなかった。揃って行動したから、共同体のものだった。時間にも道徳的な価値が、与えられていた。
江戸時代の日本人は、時間の観念が発達していた。時間を細かく管理したが、時間を無駄にしてはならなかった。
時間は過ぎ去ってゆく、貴重なものだった。時間が量的に計られ、資産であって、生産性を左右することが理解されていた。時間を守る国民は、かならず発展する。
幕末に日本を訪れた多くの西洋人が、貧しい庶民までが礼儀正しく、公徳心がきわめて高かったことを、口を揃えたように賞讃している。
徳の国富論 資源小国 日本の力 第二章 日本民族は「こころ」の民
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