トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 遊び好きと“江戸四天王”
外交評論家 加瀬英明 論集
といって、江戸時代の庶民が窮屈な、堅苦しい生活を送っていたわけではない。
江戸は世界のなかでも、享楽的な都市だった。
江戸の庶民は気散じに長けていたから、さまざまな遊びを創り出した。浮世はうきうきと生きるべき世の中でもあった。それでも、まっとうな精神が蝕まれることがなかった。
娯楽の主導権も、町人がとった。勤勉さと、遊び好きが一体になっていた。よく働き、よく遊んだ。
江戸期の日本人はゆとりをもっていたから、余暇社会だった。庶民は芝居、見世物、辻相撲、落し咄(落語)、仏寺の開帳、楊弓場から、活花、茶会、句会、香道、書道、囲碁、将棋、園芸まで楽しんだ。辻相撲は町の辻などに小屋掛けして、相撲興業や、素人が集って行うことをいった。男たちにとっては、歓楽街である吉原や、湯女が働く湯屋や、岡場所があった。
遊楽も、庶民の活力を示したものだった。人々は季節によって、梅、桜、桃の花見や、花火、祭礼、縁日、盆踊り、汐干、磯遊び、菊人形の鑑賞、筵や、毛氈を持参して虫聞き、月見や、雪景色を賞する雪見に繰り出した。
食べ物も、遊びの対象となった。江戸期を通じて、多くの江戸食べ歩きの案内書が、刊行されている。寿司、てんぷら、蕎麦、鰻が“江戸四天王”といわれた。
寿司、てんぷら、蕎麦、鰻や、田楽串が辻々で屋台見世(店)によって、商われた。屋台に今日のように車輪がつくようになったのは、明治以降のことである。今日でも、寿司、てんぷら、蒲焼、おでんの料理人を、板前ではなく、職人と呼ぶのは、屋台から発したからである。
町民は贅沢も、楽しんだ。幕末は紬まで認めても、絹は許されないといった御触書や、倹約令をしばしばだして、贅沢を禁じた。鰹をはじめとする初物食いを禁じた禁令も、再三にわたって発しられた。庶民がいかに生活を謳歌していたが、証している。
農民は農繁期は家族ぐるみで、根を詰めて働いた。
農閑期の休みは地方によって異なったが、年に四十日から八十日もあって、骨休めした。農民も遊楽を楽しんだり、講をつくって神社仏閣への参詣旅行や、都会見物を楽しんだ。
江戸時代を通じて、一族が結束して生きた。一族が基本的な共同体だった。もっとも、このようなことは、時代を超えて変わってはならないはずである。郷土愛や、祖国愛は、家族愛を拡大したものだ。
子どもたちにとって家族と社会が、もっとも大きな力をもった学校である。親や、町内の人々がしっかりとしていた。子はおとなの後ろ姿を見ながら育つものである。
父親が家においては、家長として柱となっていた。父親が子の教育に当たって、っもっとも重い責任を担い、妻が力を添えた。
父親が息子を躾けた。躾という字はもとの中国にない和製の漢字である。一挙一動が美しくなければ、ならなかった。
石田梅岩は石田心学を興したが、子どもの教育についても書いている。「万事を子どもの思いのままにしてしまうと、やがてこどもは親の手に余るようになる。」と戒めている。
人が生きる目的は、男なら良き父、良き祖父になることであり、女であればよき母、よき祖母となることだった。
ついこのあいだまで、祖父、祖母、おじ、おば、イトコや、ハトコが身近にいた。老人は子どもたちにとって、永遠不滅に思える威厳を備えていた。
人は今日のように砂粒のように個人として、ばらばらに生まれてこなかった。「個人」という言葉は、江戸時代には存在しなかった。西洋諸語を訳すために造った、明治訳語の一つである。
人は幼いころから自分を家族や、一族の一員として位置づけた。長じて家族や、一族を辱めてはならなかった。
日本において一族が、いつの間にか離散してしまった。いまでは家といえば、住宅がしか意味しない。古い意味での家は、個人を束縛する枷だとみなされる。
それとともに、家名、家風、家系、家伝、家訓といった言葉が、死語になった。だが、気儘な個人は、社会を支えることができない。社会は家族の集合体である。一族が共同体を支える基本的な単位であるとすれば、国家も、民族も、解体してゆかざるおえない。
徳の国富論 資源小国 日本の力 第二章 日本民族は「こころ」の民
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