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1954年に製作された『ゴジラ』は映画会社としても大変な力の入れようだった。撮影開始前にプロデューサーの田中友幸は「水爆実験によって海底で眠っていた怪獣が安住の地を追い出される。そして文明社会に復讐しようと東京に上陸する。私たちは被害者だが、ゴジラも被害者である。そのような文明というものを問い直そうとする作品です」とした上で「この映画は厳重な秘密主義をとりたいと思います。東宝が総力をあげて取り組んでいく映画なのです」と挨拶したという。
極秘プロジェクトとしてスタートしたが、初めての怪獣映画は難題に直面した。まず、ゴジラをどんな姿にするかだ。特撮担当の円谷英二たちもなかなか形にできなくて、ゴジラなしで撮影が進められた。お披露目されたのは新聞・雑誌の記者向け発表会だった。2メートルはある異形の恐竜は、左右の介添え2人に支えられてヨタヨタと歩いていた。ぬいぐるみはプラスチック製だったが、100キロの重さ。この中に入っていたのは大部屋俳優の中島春雄、柔道2段で立派な体格の持ち主だった。上野動物園に通いつめて、ゴリラ、象、熊などの動きを観察した。『ゴジラ』の後も怪獣のぬいぐるみに入り続け、この分野のパイオニアになった。
音楽を担当した伊福部昭は近代日本の独創的なクラシック音楽家だが、『ゴジラ』により広く知られるようになった。北海道大学で林業を学び、林務官になってから山小屋で作曲を始めた。子どもの頃から身近にいたアイヌの音楽をはじめ、西洋音楽とは違う北方音楽の影響を受ける。彼が作曲した一連の怪獣映画音楽に魅せられ、近刊『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』(新潮社)を著した慶応大学教授(近代政治思想史)で音楽評論家の片山杜秀によれば、伊福部は戦争中に科学実験で放射能を浴び、敗戦と同時に倒れて療養生活を送ったという。だから「ゴジラにシンパシーを持たないはずはない」と明言している。
監督の本多猪四郎は日本初の本格的特撮映画を任され、緊張を強いられたはずだが、役者やスタッフにはていねいに対応し、すぐれた才能や現場の熱意をたくみに結集していった。
1954年には東宝から黒澤明監督の『七人の侍』も公開された。大ヒット2作品の撮影現場の雰囲気はかなり違っていたようだ。『ゴジラ』の後も次々に主役に起用された宝田明は、黒澤作品での主演が多かった三船敏郎のボヤキを聞いている。「いいなあー、お前は。綺麗な女優と一緒だし、本数も稼ぎやがって。俺なんか、1年間クロサワに捕まってんだから、あの野郎~」
山田洋
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