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プロ野球好きになって70年になる。2リーグ制になって5年目の1954年は、球界に新たな時代の到来を思わせるシーズンだった。セ・リーグでは魔球フォークボールの杉下茂投手を擁した中日ドラゴンズが常勝巨人軍の前に立ちはだかり、パ・リーグでは西鉄ライオンズ(現・西武)の個性豊かな打撃陣のパワーが炸裂した。
そんな中、高校を卒業したばかりの新人投手が目ざましい活躍をして、今では信じられないような記録を樹立したのが忘れられない。勝ち星は26勝9敗、防御率1.58で最多勝と最優秀防御率のタイトル(ともに高校卒新人としてのプロ野球記録)を獲得した南海ホークス(現・ソフトバンク)の宅和本司だ。やはり高校卒新人で後にパ・リーグを代表するサウスポーになった阪急(現・オリックス)の梶本隆夫は20勝をあげたのに、新人王の座は宅和に奪われたのは有名な話だ。
宅和は翌年も24勝11敗で連続して最多勝投手になり、南海の大エースになると思われたが、3年目の1956年は6勝5敗にとどまり、4年目以降は1勝もできなかった。悲劇的とも言える彼の野球人生は幼い私にとってもショックだった。同期で高校から南海に捕手として入団したノムさんこと野村克也は「酷使に原因があった」と指摘し、「この時代、エースは連投も中1日の登板も当たり前だった」と言っていた。宅和だけでなく、1958年に立教大学から南海に入団した杉浦忠投手もデビューから3年で96勝、7年で164勝まで勝ち星を伸ばしながら、その後の成績が急降下したのは酷使のせいだと野村は明言していた。
最初の2年間があまりにも輝いていたので、静かに球界から去って行った宅和のことは気になっていた。8月初めに89歳で亡くなったことで、彼に関する記事も目にした。引退後はサラリーマンになり、その傍ら大阪の放送局で野球解説をしていたそうだ。やや垂れ目であどけなさも残る新人時代の写真を見て嬉しかった。そして酷使については「監督が喜んでくれるのが嬉しくて、連投も苦にならなかった」と語っていたという。
杉浦も「監督から『行けるか?』と言われれば、『無理です』とは絶対に言わないタイプだった。誰に対しても、優しく謙虚だった」との野村証言がある。こんな損得抜きの気のよい選手たちがいた時代がたまらなく懐かしい。
山田洋
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